各  論


 第一章 信仰に無関心な者に

  一、信仰する気持が起らない

 信仰をする気がないという人の生活をつきつめてみると、その人は本当に何も信じていないかというにそうではなく、親を信じ、友を信じ、食ベ物を信ずる等の無系統で経験的な雑多な信に生きている。ただその信ずる物に支配されていることに気がつかないのである。支配されるものを思索し系統だてる時に信仰というのだ。故に信ずる対象は高低・大小・雑多であり、その対象
によって、幸福にも高低・大小・雑多な結果を生ずるが故に、自分が信仰生活に生きていることを自覚するならば、正しくかつ最高の物を信ずべきであって、低級・邪義なものを信ずべきではない。信仰と生活とは密接なものである。

 一般人は宗教は心の問題であって、生活とは現の世界であると考えるが、これは宗教に無智な者の浅はかな考え方で、宗教は生活の根本である。その生活の内容は幸福か不幸かのいずれかであり、それは正価値(幸福)も反価値(不幸)も自分と外界との関係性によるものでこの価値に対しては無関心な者はいないはずである。

 

 つまり好きか嫌いか、得するか損するか、善いことか悪いことかについては、普通の人間なら無関心でいられるわけがない。
 こうした価値を追求する生活に宗教が関係を持っていることがわかれば無関心なのが不思議である。宗教を価値の獲得の根元と知れば、無関心でいられないはずで、従ってより高い価値に関心をもつ人を文化人といい、高い価値を求めない者ほど野蕃人といえるのである。


 真の仏は最大の広さと時間的長さをもつ価値について説かれるのであるから、これに対して無関心であることは、自らその低さを感じ、丈化人でない証拠であり、又無智で野蕃人であることを恥ずベきである。その上にいかに無智な者でも、自分の生活に直接関係あることがあれば少々あわてるであろう。

 すなわち真の仏法にふれて、これに反対すれば損な生活 = 罰を体験するという仏法定理がある。隣りの家の損得ではなくて、自分の身にあたる損得だから最大の関心事である。