第四節 折伏の心がけは

 折伏は絶対に慈悲の立場である。慈悲も厳父の慈悲で仏の御使として一切衆生をあわれむ立場であるから、先方の苦悩を救い仏法の無智を教え、堂々たる態度のうちに無限の温情がたたえられていなくてはならない。
 次に信行学の三科に配するの心がけが必要である。
 されば折伏には信仰に対する絶対の確信に立たなくてはならない。利益と罰に対する大確信がなければ折伏はできないのである。
 日蓮正宗の大御本尊は絶対の本尊であり賞罰明らかである。しかもこの大御本尊の仏法は東洋の仏法であり、一切衆生はこの弘安二年十月十二日の御本尊で、必ず救われるのであるから、この点について一大確信を確立して折伏に向わなくてはならない。
 しかして折伏を行ずるに当っては一大勇猛心が必要である。勇気なき者は大聖人の弟子とは申せないのである。又折伏せんとする対手は無智なものや邪義邪智な者で、現在大法を奉ずる者と同資格でないのであるから、彼らと同格の位置について諍論すべきではない。静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、師子王の力をもって屈服せしめなくてはならない。さればたとえ折伏のためとはいえ、議論のための議論や感情にまかせてけんかなぞすることは、大聖人を汚す者であることを胸に銘記すべきである。
 我ら高い位の者が彼ら低い位の者をよく導き・よく説き、我が子と同じき愛情で育てることを、常に考えて折伏しなければならない。我々がいかに位が高いかということについて大聖人の四信五品抄(御書三四二頁)の仰せには、「問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請(こ)う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈(あに)熈連(きれん)一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し、天子の襁褓(むつき)に纏(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如し、蔑如(べつじよ)すること勿れ蔑如すること勿れ」
と、以上のように大聖人から位の高いものであると仰せいただいた我々は、大御本尊を拝んで、「御利益下さい」「御護り下さい」「この願をかなわせ給え」と乞食のような信者になってはならない。何をもってかかる高貴の位をたまわるか。過去には地涌の菩薩として上行菩薩と同座し、末法には本仏の子として、折伏行にいそしむがためである。
 かかる高位の我々は無信・邪信・劣信のものと同格の境地にならないように心がけねばならぬ。彼の無信の者、邪信の者に対してさげすんだりすることなく、慈悲の境涯に立って相手を救うのである。しかしこの末法には邪信邪義の者が充満しているのであるから、なかなか真実の仏法には伏しない。大聖人は「怨多くして信じ難し」と何百回も御抑せである。かかる者に対しては、「慈なくして詐り親しむは彼が怨なり云云、彼が為に悪を除くはこれ彼が親なり」との御聖訓にもとづき大声叱陀し、彼らの迷盲を破るのに勇気がなくてはならない。
 日蓮大聖人の弟子は折伏の座については決して憶してはならない。大法を信ずる者には大利益あり、又これを謗ずる者には法力厳然として仏罰があるのであるから、なんら恐るることなく、この大法を信じないで誹謗する者には大罰・小罰種々あることを説き聞かせ、罰と利益をもつて実証の上で大法の威力を示さなくてはならない。
 又大聖人は諸法実相抄(御書一三六一頁)に云く、
「行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるベく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
 大聖人の哲学は仏法哲学上最高に位するが故になかなか難解である。しかし次第に学問を深める時に大聖人の御真意を知ることができ、御真意を知るに随って信心は強くなり折伏にも恐れを抱かないようになる。この故に折伏には絶えざる行学への努力精進を持ちつづけるベきで、一言一句でも大聖人の御意を知るときは、喜び身に充満するのである。あたかも大聖人に御目通りして説法をうけたまわるがごとく、仏界に遊戯して師子王の声を聞くがごとく、折伏の行に勇みたってくるのである。