第四節 この本尊にそむく者に罰あり

 罰という言葉は仏教用語である。この言葉を現代語でいうならば「反対価値」というベきで、我々の生活に不幸を感ずる現象の事である。この現象が我々の生活に現れた時に罰が出た、罰をうけたと称するのであって、すなわち反対価値とは、美の反対たる醜・利益の反対たる損・又社会に損害を与える現象の悪をいうのである。この悪・損・醜が生活の内容となる時に罰の生活というのである。


 さて信仰生活にせよ不信仰生活にせよ、人が生活する以上利益(利・美・善)と罰(損・醜・悪)の矛盾の原理の下に生きねばならない事は当然であり、罰を信仰生治にのみありとするは誤りである。人はたえず対境との関係性に生き、この関係生活は必ず利益と罰を生む根元である。たとえば商人が商品との関係性において売れて利益し、又失敗しては損をして苦しむ等のことは信仰のあるなしにかかわらない。これを信仰生活についていうならば、我々人類の生活は絶えず最高の利益を求めて幸福へ幸福へと活動している。宗教はその根本的な指導であり実践であるから、必らず信仰の中心となり生命と関係する対境としての本尊・仏がある。故にこれに関係するために、その神仏の大小・高低・善悪に従って各人の生活に利益・罰の現象がはっきりと現われるのであり、愚人は低い対象で低い利益に満足し、又悪神を対境として小利益を得て、後に大罰を受けたりするのである。


 妙法蓮華経は宇宙一切の森羅万象を包含する一大活動であり人生の最高法則である。しかも御本仏日蓮大聖人の御生命のみちみちた大御本尊を対境絶とする生活は、他の小神・邪神・小仏の利益や罰とは天地の相違があり、利益も大であるが、これにそむく厳罰も明らかであり、背けば大阿鼻地獄へ堕する者となる。

 

御本尊の右の御かたに、『若悩乱者頭破七分』左の御かたに『有供養者福過十号』とあるごとく、利益と罰は仏勅であり、日夜読誦し奉る題目の中に、御本仏大聖人がこの二大原則を大声叱咤せられているのである。前述のごとく罰論を科学的に説明するのは、この仏勅による故で、罰論を否定する者は仏勅を否定するものである。
 しかしてこの大御本尊にそむく者の罰は、仏が他から与えるものではなくて、各人の三世の生命が内包する過去世の罪業が、妙法蓮華経に反対したことによって業報を痛感するのである。決して他から来るものと思ってはいけない。ただ、いかに罪業の深い者であるかを知るベきである。

 

「7つの習慣」 スティーブン・R ・コヴイー 著 の「原則」の概念は、妙法蓮華経の概念に通じるように思う。