第二節 日蓮正宗の本尊
日蓮正宗においては何をもって本尊とするか。文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を根本となしてこれを尊敬するのである。故にこれを本尊と申しあげるのである。これはただ末法今時の我々の主師親三徳の本尊であるばかりではなく、三世十方の諸仏の本尊である。
本尊問答抄(御書三六五頁)に、
「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の本尊・法華経の行者の正意なり」と。
又本尊には人法の義がある。これによつて日蓮正宗の本尊を申しあげれば「人は即久遠元初の自受用報身、法は即事の一念三千の大曼荼羅」である。
人に即して法であるから、事の一念三千の大曼荼羅を主師親となし、法に即してこれ人であるから、久遠元初の自受用報身たる日蓮大聖人を主師親となすのである。
この人法の本尊が一幅の大曼茶羅と現われて我ら末法の民衆に救いの手をさしのベられているのに、愚迷の徒輩が大慈悲に浴しないのは誠になさけない時勢というべきである。
しかして大聖人の曼茶羅は数がたくさんある。文永・建治年間にも御本尊の御書写はあるが、いまだこの御本尊は大聖人の御本懐はつくしておられない。
弘安に入り、特に弘安二年十月十二日に始めて大聖人の御本懐が窮尽せられている。日寛上人はこの事について、次のごとく仰せられている。
観心本尊抄文段へ(富士宗学要集第四巻、二一九頁)
「智者大師は隋の開皇十四年御年五十七歳四月廿六日より止観を始めて一夏にこれを説き、而して四年の後同十七年御年六十歳十一月御入滅なり。吾が大聖人は文永十年四月廿五日当抄(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)を終り弘安二年御年五十八歳十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後弘安五年御年六十一歳十月御入滅なり。此処に三事の不可思議あり。一には天台大師は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。又天台は六十歳の御入滅、蓮祖は六十一歳の御入滅なり。是れ則ち像末の教主の序(じよ)豈(あに)不思議に非ずや。二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月廿五日に当抄(観心本尊抄)を終る。天台は十一月御入滅なり、蓮祖は十月の御入滅なり。蓮祖は後に生れ給うと雖ども下種の教主なり。故に義は前にあり是の故に蓮祖は廿五日に当抄を終り十月の入滅なり。天台は前に生れ給うと雖ども熟益の教主なり。故に義は後に在り。此の故に廿六日に止観を始め十一月の入滅なり、種熟の序豈に不思議にあらずや。三には天台・蓮祖同じく入滅四年已前に終窮究竟(しゆうぐうくきよう)の極説を顕す寧(むし)ろ不思議に非ずや」
又結諭して仰せには、
「なかんづく弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり即ち是れ三大秘法随一なり況んや一閻浮提総体の本尊なるが故なり」
以上のごとくかかる不思議の大御本尊が日蓮正宗富士大石寺の本尊である。
この本尊出現のために大聖人がこの世に御出現になったのである。
この御本尊について大聖人が聖人御難事御書(御書一八九頁)に、次のごとく仰せになっていることによってもはっきりわかるのである。
「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大灘は各各かつしろしめせり」 日蓮大聖人の御本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあること間違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人の御遺志をつぎ一切民衆を救わんとするものである。さればこれは世界唯一の本尊であり日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である。