第十章  日蓮正宗の本尊

  第一節 本尊論
 
 各宗各派には皆本尊がある。何をたより何を拝むかによって宗派が分れるのである。
 本尊とは「為(なして)根本尊敬之」するものをいうのであり、尊敬すべき根本を「本尊」というのである。
 

 仏教においては「主(しゆ)師(し)親(しん)」の三徳を具備せるを根本となして尊敬するのである。
 

 さればいかなる宗派も本尊とするからには「主」としてその眷属を護る力あるもの、「師」としてその眷属を指導しうるものであり「親」として子を愛するがごとき慈悲のこもったものでなければならない。主、師、親の三徳は絶対でなくてはならない。

 ことに末法は世も乱れ人も悪くなっているのであるから、絶対的偉力のある本尊を必要とするのにもかかわらず、宗教的知識の低下した今の民衆はこの点も考えずに孤を拝んだり、何の哲学的証明もつかない木や紙の札を拝んだり、我々と関係のない阿弥陀仏を拝んだり、功力の失せた釈迦の像を拝んだり、伝説の仏・菩薩を拝んだりしている。実にはかないことである。
 

 地蔵や観音菩薩の画像を拝むことなぞは、文証・理証・現証の三義からみて現代の今日何の意味もない。文・理・現の三証とは文証といって経文上の証拠である。理証とは哲学上の理論である。現証とは現実の生活上の証拠である。経文上からも哲学上からも、実際生活の証拠からも民衆の救いにはならない。
 中山法華経寺あたりで鬼子母神を拝んだり、帝釈天を拝むということも何の益にもならないことである。
 弘法大師を拝むことも随分に流行しているが、日蓮大聖人が真言は亡国なりと破し給うた原理を知らない者の所作である。真言宗は法華経を大日経より劣っていると主張して、釈迦仏法の功力がまだ残っていた時代にこれを弘めたから、各時代の真言の宗祖はみな仏の罰を蒙ってろくな死方をしていない。善無畏三蔵・弘法大師・慈覚大師等がこれである。師檀ともに地獄行きの教えであって誠に恐ろしい宗旨である。主・師・親の三徳を具備しなければ本尊でないということを知らなくてはならない。本尊の正邪をわきまえないと、とんだことになるのである。