第九章 日蓮正宗の歴史
日蓮大聖人は弘安五年十月十三日御入滅に先きだって、日興上人を第二世とお定めになり一切を御付属遊ばされた。
弘安五年九月の身延御相承においては「日蓮一期の弘法は白蓮阿闍梨日興にこれを付属するから本門弘通の大導師となるべきである」と仰せられ、「国主がこの法を立てられる時には富士山に本門寺の戒壇を建立せよ」と遣命されて、血脈の次第は日蓮日興」と御決定にならせられた。
又同年十月の池上御相承においては「日興は身延山久遠寺の別当となるベきであり、これに背く在家出家の輩は非法の衆である」と固く御決定遊ばされたのである。
よって日興上人は大聖人御入滅後御遺命通りに身延山久遠寺の別当につかれ、一宗の総貫主として大聖人亡き後を統御遊ばされたのであった。しかして身延山に御住まいの日興上人に対して表だった反対もなく、一般情勢は必然的に日興上人の下に統一が保たれていたのである。
御遺言通り身延山に御墓所をたてられ、御仏事も終って、「墓番帳」を定められ、六老僧を主体とした十八人の御弟子(そのうち過半数の十人が日興上人および日興上人の直弟子や孫弟子であらせられた)が、十二ヵ月を一ヵ月あて輪番することに決定された。その正本は日興上人の御正筆で現在は西山本門寺に蔵されているのである。
この点について後世他宗門においては池上本なるものを立て、墓番ではなくて久遠寺の別当を輪番制度にしたかの如くいっているものもあるが、これは御付属にも反するし、又西山の正本にも反するし、又その事実にも反するのである。事実は日興上人が久遠寺の総貫主として七ヵ年の間身延山に在勤されたのであって、この事について当時反対したり異議を唱えたりした者は唯の一人もおらなかった ー(当時反対したり異議を唱えたりした者が)いた という記録は何もないのである。
徳川時代以降は富士門の悪口をいうために、事実無根の虚説をなす者が多くなったが、古代においては身延山十一世行学日朝の「化導記」には、墓番帳を日興上人の御正本通り正しく引用しており、又中山の日親も原殿御書等を正しく引用しているのである。
かくて二年、三年とすぎるうちに、最初から消極的であり非協力的であった五老僧たちは、墓所の輸番も守らないで身延を捨てた形となり、それのみならず本尊問題では大聖人の御真筆の御本尊を軽視して釈迦の仏像を立てたり、戒律の問題、神社参詣の問題、一部読誦の問題など、すべて大聖人の御教義に背反することが多く、その上に五老は「天台沙門」と名のって先師大聖人をすてるにいたった。
このような情勢にあった時、民部日向師が身延に来て学頭職につかれたが、それから二・三年間に次第に鎌倉方面の軟風をもって地頭の波木井氏を誘惑し、数多の謗法行為を敢てして日興上人の厳誡をも聞きいれなくなった。神社に参詣して立正安国論の正意を破り、釈迦の仏像を造立して本尊にし、謗法の念仏に供養する等の行為がこれであった。日興上人は終に意を決して身延山を離山されるにいたった。当時の情勢及び御心境については、次に引く原殿御書をよくよく、心肝に染めて拝すべきである。
原殿御書 身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へばいずくにても聖人の御義を相続ぎ進らせて世に立て候はん事こそ詮にては候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子悉く師敵対せられ候ひぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候ベき仁(ひと)に相当って覚え候へば本意忘るること無く侯。
御弟子たる五老僧はみな先師大聖人に背いて終った、たとえ日興はいずくにあろうとも唯一人本師の正義を存じて本懐をとげ奉るのである、との砕骨流血の大確信、大勇猛心、大理想は誠に末代凡夫の心腑をえぐる大文字ではないか。
これに対し大聖人御入滅後数百年の後に、他門流が富士の悪口をいうために「日興上人は宝物を盗んで身延を逃げ出した」などと書きなぐっていることは、まったくの無根拠、曲解、大謗法の極みである。
日目・日華・日仙等の御直弟子方を伴われて、七ヵ年の間住みなれ給いし身廷の山をお下りになった日興上人は、ひとまず河合の養家に憩まれた後、上野の地頭南条時光氏の請に応じて下条にお移りになった。ついで約半里を隔てた大石ヵ原に本寺を選定遊ばされ、地名をとって「大石寺」と呼ばれることになった。これが即ち現在の日蓮正宗総本山富士大石寺である。
その後日興上人は重須(現在の北山本門寺)に移られ、内には本六新六等、数多の御弟子方を養成され、外には折伏教化に国家諫暁に努められ、大聖人御入滅の御時三十七歳の御壮年であらせられたが、正塵二年に八十八歳の御高齢をもって御入滅遊ばされた。
御入滅に先きだち第三世として日目上人を撰ばれ、先師大聖人から御相伝された一切を日目上人に御付嘱遊ばされた。その御付属状には、「本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を一閻浮提の座主とせよ」と仰せられ、又「日興が身に充て給わる弘安二年の大御本尊――即ち本門戒壇の大御本尊」を日目上人に授与され、「大石の寺は御堂といい墓所といい日目之を管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を侍つベきなり」との御譲り状を授けられたのであった。
かくて日目上人はその年の秋十一月、北条氏の武家政治が滅亡して政権が京都へ戻った機会に公家に奏聞せんとして、七十四才の御老体にもかかわらず京都に向って出発され、美濃の垂井にさしかかられた時、遂に天奏の途上において御遷化遊ばされたのであった。
日目上人は第四世として日道上人に御付属になり、それより今日の第六十五世の現御法主日淳上人にいたるまで、法燈連綿と嫡々の御相承を伝承されてきている唯一つの正しい日蓮宗が即ち富士大石寺である。
その間時代の変遷と共に多少の消長があった。第四世日道上人の時には郷師が蓮蔵坊一帯の地を目師より相伝したと主張して争いをおこし、郷師は終に大石寺を去って保田妙本寺に移った。これいらい山内の紛争が約七十年にわたって続き、疲弊のはてに御出ましになられた方が、第九世日有上人であった。日有上人は戦国争乱の世にあって、よく諸堂の修復・学僧の養成に当られ、天奏をとげるとともに、化儀の面でもいろいろと制定され、文明十四年に遷化あそばされている。
第二十六世日寛上人は、日有上人とともに中興二師と仰がれている。上人は御書の講義を始められ、観心本尊抄・開目抄等の文段や六巻抄を著述して、あらゆる邪義を破折し、正法正義を宣揚せられ、享保十一年に御遷化あそばされた。
宗名は上代には法華宗・日蓮法華宗・日蓮宗等と呼んだが、明治時代の始めに身延等の旧一致派が日蓮宗(単称)と公称したので、当時の富士連合宗では日蓮宗興門派と名のった。後にこの連合の中の多数は本門宗と改めたが、当門ではそれ以前から昔通り分れることになっていたので日蓮宗富士派と改めた。しかし宗祖日蓮大聖人、御開山日興上人の正系嫡流の大石寺が派号は変であるというので日蓮正宗と公称して現代にいたっている。