第三節 五重の相對
一、内外相對
内道と外道の比較論である。内道とは仏教の事で、外道は仏教以外の宗教即ちバラモン・キリスト教・儒教等の事でこの比較の基準は因果の理法にある。
仏教は因果の理法を根幹とし、原因あれば必ず結果があると説き、これが一法則ごとに定つており科学的である。即ち水素の二体積と酸素の一体積と化合せしむれば必ず二体積の水蒸気がえられる。酸素と水素の化合という原因で水という結果がえられる。これが科学でこの法則は時と所によらないのである。同様に仏法の法則も、同一原因は同一結果を時と所とに関係なく現わすゆえに科学なりと主張するのである。外道はこの原因結果がはつきりしていないから内道より劣るが故に、内外相対して内道は外道に勝れるのである。
二、大小相對
仏教の中にも大乗教と小乗教がある。小乗教は釈迦が説法を始めてから十二年間の説で、倶舎宗・成実宗・律宗等をさし、それ以後の説法を大乗教という。
乗とは「乗せる」ということで、小乗教は小部分の人をある期間中だけ救えるのであって、大乗教はあらゆる多数の人を永いあいだに救える教えである。
この故に大乗教は小乗教に勝るのである。しかして小乗教は日本にはほとんどなく、今天理教や日蓮宗と称する邪宗教あるいは新興宗教が、この理法をもじって使っているのはおかしなことであり、時おくれの暦を表紙だけ取りかえて使っているようなものである。
三、権實相對
大乗教の中にも権大乗と実大乗とがある。華厳教三七日の説法、方等部十六年間の説法で法相宗・浄土宗・禅宗・真言宗の依経と、般若部十四年間の説法と三論宗の依経等が権大乗である。この教は方便の教で未だ真実の教ではない。
仏智をもつて衆生の機根を観じて、これに応じて説かれたもので、しばらく「権」の教をたてて、二乗の連中が小乗教によって見思の惑を断じて仏と等しと思っているのを、方等部で弾呵し般若部で誘引しているのである。権謀の教といっていまだ真実の教たる宇宙の根本哲理・生命の真実観は説かないのであるから、これを説いた実教よりは劣るのである。
四、本迹相對
実教とは釈迦最高の説法たる法華部八カ年の教えであるが、これに本迹二門の理がある。法華経二十八品の前十四品を迹門といい、後の十四品を本門という。迹門は印度で仏となった釈迦が理論上の実相観をのベたのであるが、本門は釈迦が永遠の生命観に立って宇宙及び生命の実相をのべたものである。
即ち迹門は理論上の問題を取り扱つたもので事実上の問題を取扱つていない。例えば百万円というお金は、五十万円の二倍だとか、三十万円に七十万円を加えたものであるとかいう事で、本門は今七十万円の現金をもつており、それで買つた物を売ると現実に百万円の財産になるという事実である。七十万円に三十万円を加えると百万円になるという事は、七十万円で買つたものが三十万円もうかつて百万円になったという事実から現れた事であり、これが「本によって迹をたれ、迹によって本を顕す」ということである。百万円の金の勘定を計算の上でいくらしていても何の役にも立たない。隣の財産を数えるみたいなものである。百万円持つか持たぬかは実際生活である。この理より考えて本門は迹門より尊いのである。
法華経二十八品について論ずるなら釈迦の時代においては、迹化の菩薩人天もみな本門に来入して成仏することができた。即ち本門に至って仏の境涯を感得したのである。又像法中天台の一門は迹面本裏ともいって迹門を面とし本門を裏として一切衆生を救ったのである。故に「本迹異なりと雖も不思議一なり」と称し、迹門の理より本門の義を悟らしめ得脱せしめたのである。
正法像法いずれにもせよ迹門によっては仏にはなりえず、本門によって成仏したのである。されば法華経の後十四品を本門と称すと雖も釈迦天台の仏法であって、本門は迹門より高いというが、末法の用はなさないのである。よつて大聖人は末法には、余経も法華経も詮なしと仰せられているのである。
五、種脱相對
仏法の修行に、ごく大切なことを現代の人々は忘れている。ここに宗教の混迷を生じかつは、その批判に大なる誤謬をきたしており、従って宗教の価値を単なる修養位に考えてしまうのである。種・熟・脱の三義がそれである。
種とは下種のことで仏になる基根の原因と関係すること、すなわち仏に会って仏になる種をうることである。大聖人の仰せにも曾谷殿御返事(御書一〇五六頁)に
「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」と。
熟とは過去の下種が薫発し調養することをいうのであり、脱とは下種された仏種が調養して、遂に仏と等しき境涯をうるというのである。
これみな大利益であるが故に三益といい、下種益・熟益・脱益というのである。
さて仏教を通観するに釈迦は以上の三つの利益について、どの利益を衆生に給わつたかというに脱益なのである。過去に種々の仏・菩薩になっていた時、結縁した衆生が釈迦の時代に生れてきて、過去に調養し、又釈迦の時代に調養して遂に法華経にいたって仏の境智をえたのである。故に釈迦の出世の本懐は過去の下種を熟し脱しめんがためである。何の縁もなき衆生がポツンと法華経に来入しても得脱はできないのである。
しかして過去に下種されながら釈迦の寿量品にあえなかった者、又印度に出現した時に下種された者たちは、正法一千年・像法一千年間に調養し脱したのであるが、まだまだ衆生が残っている。しかして像法になってきたので薬王菩薩の後身たる天台大師が出現して、熟益の仏法たる理の一念三千の珠を摩詞止観につつみ一切衆生にあたえたのである。ここにおいて過去の下種の者は熟益の仏法に会い、調養しつつ自然に得脱せしめられたのである。
されば印度降誕の釈迦仏法は、脱益・熟益の仏法で下種益の仏法ではないのである。
さてしからば末法はいかん。我々末法の衆生は釈迦の仏法に何の結縁もないということを、大前提として知らなくてはならない。何の縁もないが故に釈迦仏法においては下種もなければ熟もない。故に釈迦五十年の経々においては、成仏ができないから、現世に成仏の証拠としての幸福は掴みえないのである。されば改めてこの世で仏にあい下種をうけ、この下種を最初として直達正観といって、末法の仏の仏力法力によって、ただちに仏の境涯にいたるのである。末法においては下種益以外にないのである。
釈迦は過去の下種した衆生を整理して成仏せしむる益で脱益といい、末法は下種して仏を成ぜしむるのであるから種の仏法という。種の仏法と脱の仏法とは根本的に違っているので、末法今時においては、種の仏法こそ絶対に必要なのである。故に脱益の仏法をすてて下種の仏法をとらなくてはならぬ。これを種脱相対して仏法を批判するというのである。
かく論じてくると、末法今時は絶対に下種仏法でなければならないことがわかる。
脱益熟益の仏法は釈迦の二十八品の法華経に結せられ、下種の仏法は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。
世人がよく法華経というと、釈迦の二十八品の法華経だけだと思いこんでいるが、釈迦の二十八品は脱益の在世時の法華経で、熟益の法華経は像法時の天台の摩詞止観であり、末法下種の法華経は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の七文宇の法華経である。
日蓮大聖人、観心本尊抄に云く(御書二四九頁)
「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり、但し彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」
この末法今時の下種の法華経についても、大聖人滅後七百年の今日において混迷をきたしている。それは本尊の迷いからきたものである。この本尊論については後章に、これをのベる。