第四節 救世主日蓮大聖人と御まんだら

 末法に大聖人は御本仏として御出現になり、我らごとき愚迷の徒をどうして救われんとなされたかというに、三大秘法の南無妙法蓮華経をもって我々に真の幸福を与えんとなされている。すなわち題目・本尊・戒壇の三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 この末法の一切衆生を救われんとて御建立遊ばされた大まんだらについて御書には次のように御説きになっている。
日女御前御返事(御書一二四三頁)
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼茶羅を・末法二百余年の比(ころ)はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は、宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を竝(なら)べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇(じんぎ)等・体(たい)の神つらなる・其の余の用(ゆう)の神 豈もるベきや、宝塔品に云く『諸の大衆を接して皆虚空に在り』云云、此等の仏菩薩・大聖等・摠じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形となる是を本尊とは申すなり」

 しかして本尊中の本尊たる一閻浮提総与の本尊に向つて、南無妙法蓮華経と唱題することによって末法の一切衆生は救われるのである。この一閻浮提総与の本尊は弘安二年十月十二日の御出現であって、この本尊を拝むこと以外に末法の衆生は幸福になりようはないのである。日寛上人がこの本尊に関して次のように仰せになっていられる。


 (富士宗學要集第四巻二一三頁
「是れ即ち諸仏、諸経の能生の根源にして諸仏、諸経の帰趣せらる所なり。故に十方三世の恆沙(ごうしや)の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆ことごとく此の文底下種の本尊に帰せざるなし、譬えば百千の枝葉同じく一根に趣くが如し、故に此の本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり、故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるはなく、福として来らざるなく、理として顕われざるはなきなり」と。
 宗祖日蓮大聖人は佐渡御流難前後から一機一縁と申して縁ある人々にそれぞれの御本尊を授与せられていたが、弘安二年十月十二日・末法全体の民衆に総与として給わつたのが本門戒壇の御本尊である。故にこの総与の大御本尊が今富士の大石寺にましますが故に、大石寺の門流となってこの本尊を拝して一切民衆が幸福になるなら、大聖人が御本仏として出現して末法の我々をいかにして救われんとなされたかという御本懐を知ることができるのである。