第四章 人生の目的と幸福論(2)

 

 幸福というとまず物質的とか精神的とかいわれて、物質には恵まれていないが精神的に恵まれているから幸福だなどと、よくいわれるが、世の中の制度にしろ主義にしろ、みな人生の幸福の建設を目的としていることにつきるといっても過言ではない。科学が進歩すればするほど我々人生に益するところは大きい。さらに科学がもっと進歩すればもっと幸福生活ができると思っている人もある。そういう人は科学と、真の宗教とを知らない人である。かんたんにこの点を説明すれば、科学とは自己の立場より外界に対して探究されるものであるに反し、宗教はその内在というか内面的な生命の問題についての探究と解決なのである。
 故に科学がいかに進歩してあらゆる生活面において利便が最高度に与えられようとも、子のない悩み、父母妻子の病の悩み、家庭不和の悩み等々、怒りねたみ、貪り等により起るすべての悩みは解決できるわけもなく、又一服の清涼剤によって治することなどできるはずはないのである。現実に生きているこの生命自体とは何であるかを解決できるのが宗教である。
 現在の科学は日進月歩と進んでいるにもかかわらず、この生命の内在の問題の解決となると余りにも世間で無頓着の状態にあるので、真の幸福とは何であるかも知ることができず、又それを切り開く術さえ知らない状態にあるのである。
 しかるにその宗教の真理が実践面及び応用面になると今の宗教界はみな堕落して偉大な先哲が発見した真理を忘却し、馬鹿みたいな坊主や猿のような宗教屋ばかりとなって、しかもそれらはあたかも真理を知っているような顔をして偉そうにしやべっているから驚かざるをえないし、呆れざるをえない。
 されば我々の幸福なるものは我々の生命と外界の関係から生ずるもので、我々の生命の内面的真理の確認なくしては決して幸福を悟ることはできないものである。さて幸福の反対として考えるものは不幸である。不幸がなくなれば幸福が生れるのである。しからば人生の不幸はどうして生じたか、人類のなやみはどうして生じたものであるか、これは宗教の極理に達した哲人の教えを聞く以外に道はないのである。


 開目抄(御書一九九頁)に日蓮大聖人が釈迦と志を同じうしてこの世に、不幸の起る原因を論究して仰せられるのには、「仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く『末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土』とみへぬ、法滅尽経に云く『謗法の者は恆河沙・正法の者は一二の小石』と記しをき給う千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によって悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり、輪廻六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微(りじんげみ)と立て未有(みう)一人得者・千中無一等とすかししものに無量生が間・恆河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」


 この御文は誠に深い御意味が含まれている。間違った宗教がいかに人を不幸にしその生命を完全なものに出来ないかということを仰せられている上に、この真理の主張は大聖人御一人ではなく自分と岡様釈迦も同じ意見であると仰せられている。今日我々が不幸を感じ幸福を感じられないのは過去世において邪宗を信じたが故であると。又現世に邪宗を信ずる者は現世はもちろん未来も不幸を背負わなくてはならないとの御文である。こんな事をいうと科学者は信じないかも知れない。しかし「これを知れるは日蓮一人なり」との仰せは科学者の知る領域ではない。なぜならば科学者は事物を科学するかもしれないが、生命の内在的真理に対しては無智であることを自覚すべきだ。
 我々の生命には染浄の二法が存在する。浄らかな生命は外界の一切を素直にうけて宇宙の大リズムに調和して生命が流転するから決して無理はない。この生命こそ偉大な生命力を発揮するが故に人生を楽しむことができるのである。ところが生命の汚法と申すのは、生命が幾多の生命流転の途上にみな誤つた生活が生命に染つて一つのクセを持つことになる。そのクセを作る基が欲張り、怒り、馬鹿、嫉妬等のもので、これによって種々に染められた生命は宇宙のリズムと調和しなくなって、生命力をしぼめて行くのである。このしぼんだ生命は宇宙の種々な事態に対応できなくて、生きること自体が苦しくなるので、すなわち不幸なる現象を生ずるのである。
 末法今日においては、日蓮大聖人の文底秘沈の大白法・三大秘法の御本尊によらなくては生命の浄化はないのである。しかるに今日・日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を唱える者は何百万とある。しかし大聖人の文底秘沈の大白法三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える者がないのである。しかりとすれば大聖人の弟子とは申されないのである。大聖人の南無妙法蓮華経は三大秘法の大法であるから、寿量品文底下種三大秘法の南無妙法蓮華経を唱えないものは、単に南無妙法蓮華経と唱えたところで、生命を浄化できるはずがない。生命を浄化できないとすれば何の価値もない宗教である。いな大聖人の開目抄に仰せのごとく邪宗と呼ぶ以外にはない。
 邪宗なら大聖人の仰せ通り仏敵であり人類の敵である。しからば大聖人の仰せ通りの正宗が世に存在するか。大聖人の仰せ通り正しく三大秘法の大白法を獲(まも)り通し人類を真の幸福へと導く宗教は、日蓮正宗富士大石寺以外にはないのである。日蓮正宗こそこの本理にかなって生命を浄化し生命を強くし、この苦い人生をも楽しい浄土として楽しみうる一大宗教であることを、吾人は主張するものである。
 さればこの大宗教を信ずることによって、生命のリズムは宇宙のリズムに調和して生きる幸福をしみじみと感ずるのである。生命の歓喜こそ幸福の源泉力である。
 されば結論していうならば、人生の目的は絶対かつ永遠の幸福を求めるにある。そしてその幸福は成仏という境涯であり、この成仏は末法の本仏日蓮大聖人の三大秘法の仏法によってのみ得られることを、吾人は強く強く確信するのである。