第四章 人生の目的と幸福論

 人生の目的という事ははっきりとしていなくてはならない事であり、又はっきりしているようでありながら反問されてみると案外答えられないのが、世の中では普通となっているようである。
 当然すぎるほど当然の事であるにもかかわらず、自分自身で究極の目的を忘れているか又は中小目的である一つの手段方法をもって、最終目的と思いこんでいる人が多いのである。世間で俗にいわれ又考えているのは戦前であったならば大臣になるとか大将になる事を目的と思った者が多いが、今では実業家・芸術家・教育家・技術家・宗教家等々と志望して共にその屈指の者となることを目的と思いこんでいる者が多い。これが哲学者になってくると少し問題をひねくり廻し揚句の果は食うために働くとか種族保存のためにとか、果は鶏と卵とどちらが先かの例のごとくに、一向に解決もつかないまま混迷におちいっている。一歩立ちいって物事を考えてはいるようであるけれども、さりとて誰人にも納得できる明答は生れてこない状態にある。いう人自身が未解決のままはっきりせずにいうのであるから、聞く立場にあるものが解らないのはもちろんの事である。
 従って現在の哲学とは解らないものの代名詞であるといわれても仕方ないのである。
 以上のような考え方であっては更につき進んで思索した時に満足できない。
 それではその原因がどこにあるかを突き止めてみる必要がある。我々は大実業家に大教育家に大芸術家にと各界の大家となればそれで至上の幸福といえるかというに、仮にその立場や地位になったとしても自分自身が病身で苦痛を感じたり、又妻や子が病魔に悩まされるとか、先立たれるとか、家庭の不和や天災等に遇うとかであってはとうてい幸福とはいえないし、そこに一抹の淋しさというか物たりなさというものがあるに違いない。
 従ってその志望たるものも一大条件つきでなくてはならない。何になるにせよこの一大条件即ち幸福なる生活を営むのが目的であって、その方法として大事業家・大芸術家に志すのが、とかく人生の目的と誤られている事が多い。
 幸福生活の願望のためにその道を選ぶのに外ならないのである。
 又あるいは努力さえすれば幸福になると思いこんでいる人もある。けれどもちようど太平洋の真只中で羅針盤もなく、どこに着く目的もなしに舟漕ぎに努力しているのと同じことになる。それもかくすれば幸福になるという確固たる信念もなく単に幸福になりたい、なるだろうの希望的のものにすぎないのである。
 我々は真の人生の目的は幸福生活を営むことであると主張するのである。もちろん幸福といってもその内容はまちまちのものでなく、万人に共通なる内容の定義を有するものでなくてはならない。何人にも共通して表現できるものでなくてはならず、しかもそれが究極のものでなくてはならない。一手段方法をもって目的と思いこんだものであってはならないのである。
 あるドイツの哲人は人生の目的は真・善・美であるといったが、この点について少し検討して見よう。
 我らの主張は後において述べるが、なるほど美と善は人生の目的の幸福の要素に違いないが問題は真という事である。真である事が必ずしも幸福の要素とはならない。真とは真理・真実・真偽というところの真であり、あくまでも認識の対象となるものである。価値といえば生命との関係性をいうのである。
 従って真でも偽でも実在するものが我ら人生に益するか害するかの関係性によって幸不幸を感じるのであって、普遍妥当性の真理そのものは我々の生活にそのまま幸福を与えるものではない。真実真偽の真という事は必ずしも幸福の条件とならない事はもちろんである。
 たとえば子供のないこと又は病身である事等が真実であっても、又父母か妻子の死が真実であってもそれは不幸なのが当然の事であるからだ。真理の不変は幸福の不変にはならない。真理とは自己の生命以外すわなち第三者的の実在について探究せられるものであって、幸不幸とは自己の生命と第二者的実在との関係性により生ずるものである。
 幸福になりたいという願望は我々の共通した願いであるけれども、幸福というと又人々によって色々考えられている。あるいは満足できれば幸福だという人もあり、又は上を見ればきりはないし下を見てもきりはないからまあまあ幸福の内だなどと、半分はあきらめきった幸福感を持っているものもある。健康だからとか家庭が円満だからとか物質に恵まれているからとかの理由で幸福だと思っている人もある。
 戦前には恩給生活者は死ぬまで生活を保証されたと思い、又貸家をたくさん持っていたものは老後まで生活の保証と安定がついたと思いこみ、地主も大資本家もそれぞれ、そのように思っていたに違いないが、それが一度戦災にあった時に、まして敗戦になり経済的変動のあった今日、その考えが持続できたかというに、その反証を事実は余りにも明瞭に証明しているのである。又列車事故や海難事故や最近教多いバスの転落事故の寸前まで、その生命の危険も知らず幸福だと思っていたものもあるに違いない。好条件が備わったから幸福だなどと思っている連中は、いつくずれて行くかも知れず、また未来は保証されず、運命と思いこんでいる人も一度それが我が身の上となれば、知らないから解らないからといって幸福であるとはいえないのである。
 真の幸福とはそのように何時いかなる事がおきようと、外部からの働きによって絶対にくずれるものでなく、自己の生命の内部よりたくましく湧現したものでなくてはならないのである。