第三章 一念三千の法門

 日常生活やあらゆる働らきの根本となるものが我々の生命であるが、仏教ではこの生命の実相 ― 本質を一念三千で説き明している。一念三千とは、一瞬の生命に十界を具し、十界は互具して百界となり、百界に十如是を具して千如是、千如是に三種の世間を具して三千世間となる。一瞬の生命にこの三千が具していると説くのが一念三千である。即ち生命はちようどガラスに入れた透明な水のようなもので、これにいろいろな色の光線をあてると種々に変色するように、縁によって種々の働きを起す。これが一念三千である。

 第一節 十界論

 十界というのは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏である。
(1)地獄とは、よく死ぬと地獄へ行っていろいろの鬼にせめられて苦しむ等と話や絵画等によって迷信化されているが、地獄とは我々が日常生活において子に死なれる、借金に悩む等の煩悶懊悩するその苦しみを心に感じ肉体及び生活に現ずる事をいうのである。
(2)餓鬼とは、慾に支配された貪りの状態、時間に追われたり物質の不足を常に感じて満足を知らない生命になる事である。
(3)畜生とは、目先きのことにとらわれて根本を忘れるおるかな状態、又強い者を恐れ弱い者を蔑(あなど)る犬猫同様の生命に支配される事である。
(4)修羅とは、心が曲っているため素直に物事を考える事ができず、正しい事をいわれてもすぐカッとなり腹立ちの状態にみちみちている時をいう。
 この四つは四悪道といって、これに支配されている生活には絶対に幸せはない。次に、
(5)人界といって、親、兄弟、友人等を人並に思いやる(懐しがったり、心配したりする)平らかな生命の状態がある。
(6)天界とは、ほしいと思っていた物が手に入った時とか自分の思い通りに事が運んだとか等、何か願いがかなった時に有頂天に喜ぶ状態であるが、これは永続しない。
 ここまでを六道といって我々の一日の生活は、この六種類の状態を縁にふれて瞬間瞬間くりかえし生命に感じているのである。この他に我々が学問や修養、努力等によって得られる状態がある。
(7)声聞といって、ある理論をつかみ理解ができてくる時に喜びを感じその思想によって人生観とする状態であって、我々が本を読んだりする時多く心を支配するものでインテリ階級がそれである。
(8)縁覚というのは、畑を耕したり華を活けたり、大工仕事、針仕事をしたり体を働かせることによって、そこに何ともいえない苦しみを忘れた三昧境ともいうべき状態を心に感ずるものである。よくいう名人上手の心境等はこれに当るのである。
 声聞と縁覚を二乗ともいう。声聞は空理をつきつめて、煩悩を断ち切ろうと努め修行する。縁覚は一分の理を縁によって覚った者をいう。
(9)菩薩とは、絵像や仏像として普通は考えるが我々が自分の徳性を発揮して、社会のために尽くす働きを心や肉体に表した時をいうのである。勇気を持って他人に尽くす時は勇勢菩薩、智恵をもつて行う時は文殊菩薩であり、自分をぎせいにしても人を救うとの心は、みろく菩薩の働きである。
 今のべたごとくどんな努力家も勉強家も、あるいは高位高官の人であっても常にこの九つをくり返しているのであるが、仏はこの九つの生命の外に、もう一つの状態のある事を説かれている、これを仏という。
(10)とは、ある働きに名づけたのであり決して死人や先祖や偶像的なものではない。我々の生命は永遠であって滅びることがないというのは釈迦の覚りであり生命の実相である。我々が信心し折伏をするのはこの永遠の生命を我が身に認識しゆるがぬ幸福感を証得することが目的であり、この生命を確立して強い生命力の働きを生活に実践することで、これを顕現することのできる状態を仏というのである。
 この仏の状態はちようど「怒り」という生命は今すぐここに出すことはできないが「ある」と同様に誰もが持っているのである。このように地獄界から仏界までの十種の状態がそれぞれ縁によって心を支配し、身に感じているのが我々の生命の実体であり、宇宙の実相で、一切の存在の中に現然とあるのである。ところがこの十種は必ず重なって現ずるものではなく、「地獄」を感ずる時は、「縁覚」やその他の境涯はなく「怒り」の状態に立つ時は一切のものが「怒り」に満ちみちて、人界・天界等の姿は見られない。このように二つが同時に現われることは絶対にないのである。ここにおいて我々がこの強く浄らかな仏の境涯に立つためには、どの境涯も必ず縁によって生ずるという事実から仏の生命を対境としなければならない。しかしこれはどんな教義を持っ教団、宗教家にあっても全然知ることができない。ましていわゆる世の淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)には絶対あるわけがないのである。
 ここに三千年前から釈迦・天台・伝教までも願求している末法の御本仏日蓮大聖人の御出現の意義があり、大聖人の御観心たる南無妙法蓮華経の大御本尊こそ醜を美に、害を利に、悪を善にかえ、亡びる事のない永遠の幸福生活に立たしめ、仏の生命を顕現させる唯一絶対の対境である。

 第二節 十如是

 十如是とは法華経の方便品に鋭かれている、即ち「所謂諸法は如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」とあるをいう。宇宙のあらゆる森羅万象が悉くこの十如是の当体であり、又瞬間瞬間の生命がことごとく十如をそなえていることを「諸法実相」と説いているのである。
 相とは外面の姿形であり人間でいえば肉体をいう。性とは内面の性質であり精神・心・智慧等をいう。体とは物質と精神というように分けないで、「一人の人間がいる」とか「一匹の犬がいる」というように、一個の生命が客観的に実在しているという見方、即ち「生命」というに当る。力とは内在している力、作とはその力が働らき出すことをいう。その働らきは又その生命自体にとっては何らかの因があり、因は外界の助縁と和合して果報を結ぶ。始めの相を本とし終りの報を末と為して本末は究竟して等しい、即ち九如是に分けられるとしても、それは一箇の生命の一瞬の因果であるということである。


 この十如是を日蓮大聖人の御生命 ― 大御本尊の上から拝して釈した戸田先生の講義を次にかかげる。

 方便品寿量品精解(九八頁)

 如是相 われわれ衆生も同じですが、みな相を持っております。人相というものを持っています。仏様にもお姿がある。迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは、みな相が違います。ピカピカしたアミダみたいな仏相、あんなのは考えてみたって、ウソだということがわかるでしよう。そんなウソのものを信じて、頼りにしても、しようがないのです。ところが、末法の御本尊、文底深秘の御本尊の如是相というのは、凡夫のお姿そのままではないか、凡夫相でいらせられる。それがほんとうの仏のお姿です。
 如是性 仏の性分を持っていらっしゃる。大聖人様は、お姿は凡夫のお姿であるが、お心は御本仏の性分である。
 如是體 そして、大聖人様という御本体を作られている。これは、御本尊についても同じくいえます。
 如是力 力を持っておられる。同じ仏でも迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは力が違います。文底深秘、南無妙法蓮華経という力は、大聖人様というお力は、あらゆる仏を作られているのです。
 如是作 力のあるところ、必らず作用があります。働きというものです。 如是因 作用があるのには、原因があります。大聖人様が末法にお生れになって、文底深秘の大法を説かれる因は、久遠元初に、すでにできているのです。
 如是縁 その縁は、末法の衆生というものを縁になすっていらっしゃる。われわれが縁になっているのです。われわれは、釈迦になんにも縁がないのです。だから、釈迦の仏法なんかでは、絶対に成仏できない、幸福になれない。そういう仕末の悪い者が生まれてきた時だから、それを縁として御出現になったのです。
 如是果 よって、竜の口の御難を受けられ仏の境涯を顕わされた。
 如是報 報いを受けられた。御本仏としての非常に平らかな境涯を九ヶ年、身延の山でおすごしあそばして、仏の境涯を楽しまれたのが報です。
 本末究竟等 これを仏の姿に読みますれば、如是相という大聖人様のお姿、如是性という本仏のお心にしても、如是体という本体にしても、また、力にしても作用にしても、因縁果報ことごとく御本仏の姿、それ自体でしよう。
 本も末も、究竟して等しいでしよう。それをいうのです。

 

 ここにかりにドロボウがおるとする。そのドロボウは、如是相から、如是報までことごとくドロボウであるのです。それが本末究竟等、一貫しているわけです。
 御本尊と申し上げますれば、如是相も、如是性も、如是体も力・作・因・縁・果・報ことごとく御本尊様なのです。一貫していなければダメなのです。
 如是相が仏様で、如是性がドロボウで、如是体が猫だなんて、そんなふうに変つていてはいけません。

 次にこの十如是を三遍読むのは、我が身は即ち空仮中の三諦、法報応の三身、法身・般若・解脱の三徳とあらわれることを意味する。
三如是・三諦・三身の関係は

      三如是・三諦・三身
      如是相・仮諦・応身
      如是性・空諦・報身
      如是体・中諦・法身

 となる。
 又初めに「如是相・如是性……」と読むは「是の如き相・是の組き性……」と仮諦の義となり、
 次に「是相如・是性如……」と読むは「是の相は如なり・是の性は如なり……」と空諦の義となり、
 次に「相如是・性如是……」と読めば「相是の如し・性是の如し……」となって中諦の義となる。

第三節 三 世 間

 三世間とは五陰と衆生と国土である。
 五陰とは色・受・想・行・識の五であり、陰とは〟おおいかくす〝の意と〟あつまる〝の二つの意味がある。〟おおいかくす〝の意で九界に約せば善法をおおいかくしており、仏界に約せば慈悲におおわれていることになる。〟あつまる〝の意味で九界に約せば生死のあつまりであり、仏界に約せば常楽があつまっていることになる。
 五陰の仮に和合するを衆生という。十界にはそれぞれの衆生がおり、仏界は尊極の衆生である。
 国土世間とは十界の住する処である。仏は寂光土・菩薩は実報土・二乗は方便土・天は宮殿・人は大地・地獄は赤鉄に住する等のごとし。
 世間とは差別の義である。Aの人とBの人を比ベて五陰の差別を五陰世間という。仏界の衆生と人界の衆生の差別を衆生世間という。同様に国土の差別を国土世間という。


 第四節 事行の一念三千

 天台大師は摩阿止観に「一心に十法界を具す……此の三千一念の心に在り、若し心無くんばやみなん、介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」(御書二三八頁)等と説いた。即ち我々の一瞬の生命に三千世間をそなえている。介爾ばかりのほんの僅かな心にも三千世間を必らずそなえているというのである。
 しかし天台のいう一念三千は理である。観心といい観念観法といって、心の中であれこれと考える世界である。
 日蓮大聖人は末法の一切衆生のために、この一念三千の御当体としての南無妙法蓮華経の大御本尊を御建立遊ばされた。我々一切衆生は大御本尊を信じてお題目を唱え修行を励むならば即身成仏する、これを事行の一念三千という。
 理論的には一切万物ことごとく一念三千の当体であるが、実際生活の上から、事実の上からみればそうではない。邪宗の信者は一念三千の当体ではなくて、唯一念三千の大御本尊を信ずる者のみが一念三千の当体である。「介爾(けに)も心有れば……」とは、介爾(けに)ばかりの信心があれば即身成仏するのであると、日寛上人は釈せられている。