二、生きることが樂しい

 寿量品講義長行の終り (大白蓮華第六十四號 昭和三十一年九月一日発行)

 これは、寿量品のけじめになりますが、このように、自分の生命というものは永遠である。しかし、年寄りで死んだとか、あるいは生まれてきたとかの条件をつけてみたところが、それはただ方便であるというのです。結論はそうです。我々の生命は永遠なんです。この体のまんまで永遠に生きるのです。ただ、お爺さんになつてから赤ん坊になれませんから、一ぺん死ぬんです。そうして赤ん坊になってまた生まれてくるんです。生まれ変るんじやないんですよ。ちようど我々が赤ん坊のときからこの年までずーッと続いてきているのと同じなんです。途中で、切れたなんてことないでしよう。だけど考えてみると、切れたみたいなときがありますね。グッスリ眠っているときなんか、自分では生命があったんだか、なかったんだか判らないでしょう。もう朝になった、なんていうときはね。だけど、夜の生命から、朝の生命に生れ変ったなんていわないでしよ。それと同じで、来世に生命が生まれ変るんじゃなくてこの生命の続きなんです。たとえてみれば、朝起きて元気ハツラツとして、晩になると疲れてグッスリ眠って元気をとり戻したみたいに、ずーッと年寄りになって死んで、その生命の続きが今度は赤ん坊になって生まれてきて、またお爺ちやんになって死んで、また生まれてくる。その間がどうなっているかというのだ、生まれてくる間が。そんな魂みたいなものがあるんならいいんだよ。そんなのはないのだ。何にもなく続いているこれは、実に困ったものだよ。何かあることにして説明すると楽なんだよ。全然ないとはいえないんだよ。だけど形のあるものでも何でもない。ちようどラジオがここにきてますがね、ラジオ東京でもNHKでもきてますがね。きてるけれども何もないじやないか。ありますか? あるったって何もないじやないか。ないけどここのところヘラジオの機械をかけてごらん、今ごろ何をやってるか知らないけれど、浪花節なんかやってるかも知れませんよ。
 この世っきりでないから、宗教をヤカマシクいうのです。来世に生まれてくるときに我々がまた四畳半のところへ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になつても満足な福運もなく一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは嫌です。生まれ落ちると、女中さんが三十人もくっついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生としてお嫁さんは向うから飛びついてきちやって、良い子供を生んで立派な暮しをして、そして死んでゆかなきやならない。その来世の幸福を願うが故に、今、信仰させる。来世だけじやダメだ、今生もよくなければ、来世がいいという証拠にならない。
だから今生においてちやんと幸せになれる。今生において幸せになるが故に、来世のことも仏さまの仰せ通り確信できる。だから大丈夫だから、安心して信心しなさい。
 今生において、必らず証拠がでます。まだ信心して一年か二年して、「先生まだダメです」なんてそんなあわてることはないよ。ほんとうに六十で死ぬなら、五十五くらいからでもたくさんだ。五年間毎日毎月楽しく慕らしたらいいじやありませんか。それを三十代から、「二年間やったけどまだダメだ」なんてね。そうあわてなくてもいいですよ。貧乏な味を知ってなきや、楽しみの味も判らないですよ。我慢して貧乏しろという意味じやないですよ、必らず証拠がでます。熱心にやりなさい。あわてたってしようがない。もともと貧乏になって生まれてきた本質を変えるんです。医者へ行ったってダメだ。嵐にだまされたと思って、信心を怠らずずーッとやって下さい。なんぼやってもダメだったら私を殺しにきなさい。一向さしつかえありません。また、私の死後だったら、墓をあばいて骨なんか放っぽりだしちやっていい。私は断じてそういうことにならないことを確信しているのです。今までみんなそうなんです。頭まで良くなるのですよ。脳味噌の中まで変っちやうのですから。