戸田城聖全集質問会編 147 日を奇数で数えるのは

 

〔質問〕 赤子が生まれたとき、お七夜とか、死んだとき、初七日、三十五日とか、奇数日で 数えます。これは、邪宗からでたのでしょうか。どういうところからでたものでしょう。

 

 (かん)普賢菩薩(ふげんぼさつ)行法(ぎょうほう)(きょう)という、法華経の結経があります。そこにそういう計算方法がでているのです。それが七日、二七日、三七日と計算がなっております。四十九日などは死んだ人の法要で、みな縁起の悪いように思いますけれども、四十九日目というのは、いい日なのです。あとは百日になりますが。

 ですから、邪宗からでたとかというのではなくて、釈迦時代の仏法からきているものです。

なんで七日を決められたかは、私にはわからないのです。経文にそうあるのです。数の不思議というものは、どうも妙なものでして、いろんなことをいわれていますが、あれがどこからどうでてきたかというと、私にもはっきりいいかねます。

 私も長く数学をやっていましたが、どうしてダースなどというのか。十はわかるでしょう、指の数からきているのですから。六は半ダース、もう六でもって一ダースという、このダースの計算のもとがわからない。

 観心本尊抄の講義を書いておりますなかに、インドでは六をもって具足としているという、日蓮大聖人様のおことばがあるのです。それは、私が数字をいじった時代に、しょっちゅう考えたのですが、結局、手と、足の親指ではないかと思うのです。それで数を六つはかったもの ではないかと思うのです。

 それ以外に、どの数がどうだという、数学上ではもちろん、そんなのはありませんし、運命論からいっても、どうも後でつくったほうが多いようでして、姓名判断などといっても、あれは哲学がないのです。

 数は、だいたい、中国でこしらえたものらしいのですが、十一がいいとか、十三がいいとか、十五はいいとか、十八がよくて、十九がだめで、二十がだめで、二十一がいいとか、二十二がだめで、二十三と四と五がいいと。二十六がちょっといいと、そういうようなことはありますが、私はあまりくわしいことは知りません。

 若いときに研究したのですが、その数の吉凶が、いかなる哲学からでたかと調べてみてもはっきりしないのです。それで私は姓名判断を捨てたのです。こんなもので、人間の幸福を左右するのは、間違いだと思いまして、用いません。

 これを盛んに用いてよろこんでいるのは立正交成会です。私が二十のころに捨てたものを、いまごろ拾ってよろこんでいるのです。