戸田城聖全集質問会編 132 天台流の法華経とは
〔質問〕 先生が法華経を天台流に習ったために、罰を受けたというお話を聞きましたが、どういうわけでしょうか。
いま、日本には法華経の講義録はたくさんあります。いちばん売れているのは、小林一郎という。中大の先生の書いたものです。私は中大で、小林先生に倫理学や哲学を習ったものですから、先生の講義録を非難するというのは、弟子が師匠を非難するのでいけないのです。だが私は、講義録はずいぶん読みましたが、これはどうしてもだめです。先生が悪いのです。これはどうしても儒教の学説なのです。仏というものが成り立っていないのです。
この他は、本多日生にしても天台をでていない。天台大師という方は、三大部といわれる「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」というものを書かれた人で、法華経を読むうえには、これほどりっぱな哲学はないのです。
で、私もこういうことをいっては失礼にあたりますが、少しばかり学問の世界にいる人間なのです。数学とか物理とか経済学とか景気変動論とか。そういうものばかり研究してきた人間なものですから、哲学的なものにすぐ負けるのです。天台の法華玄義にしても、法華文句にしても、摩訶止観にしましても、読んだらどうも正しい。ところが、二十六世の日寛上人の議論によりますと、これは教相と観心と二つの哲学があるのです。日蓮正宗によりますと、天台の学説は教相になります。観心とは文底秘沈のことであります。
ここで、日蓮正宗の哲学の奥底である、御義口伝の如来寿量品第十六のなかに「南無妙法蓮華経如来寿量品」とあるのです。これはもっとも大事なことばです。如来とは何か、天台は三世十方の諸仏が如来だといっているのです。三世十方の如来は仏だといっているにもかかわらず、あの御義口伝は「南無妙法蓮華経如来寿量品」とあるのです。そうすると如来ということばは、御義口伝からいくと、寿量品はぜんぶ南無妙法蓮華経の如来ととれ、という命令なのです。「如来秘密神通之力」とはなんぞ、南無妙法蓮華経の仏ととらねばなりません。
そう読んでくると観心本尊抄が生きてきます。南無妙法蓮華経の御本尊様を拝めば「権迹本の教主釈尊の因行果徳」(観心本尊抄文段)を「譲り与え給う」(御書全集二四六㌻)ということばがすごく大事になります。われわれには、なんの修行もないのです。なんの修行もないが、南無妙法蓮華経如来寿量品という如来を南無妙法蓮華経と読んだものは「権教の仏、迹門の仏、文上の釈尊の功徳をぜんぶくれる」とこういうのだから、仏の功徳をもらったのだから、貧乏するわけはないのです。
私が経文を読んでも貧乏な仏などでてきません。仏が借金に困ったという経文は絶対にありません。だからそのように読むとありがたくてたまらなくなるのです。それを天台の経文を読むと、貧乏な仏は権迹本の仏の修行を何億万年もしなければだめになっているのです。だから天台はだめだというのです。