戸田城聖全集質問会編 119 理と事について
〔質問〕 一念三千の「理」と「事」とは
「理」というのと「事」というのと、二つです。仏法には、日蓮大聖人様の仏法と釈尊の仏法と、二通りあるということは、もうご承知のことと思います。
釈迦仏法でいいますと、釈尊が修行のうえで教えたままをやることを「事」といいます。たとえていえば布施行だとか、精進行だとか、そういうのを「事」といいます。これは正法時代に利益のあったものです。
それから、像法の天台の時代になりますと、もうこれでは利益がない。それで、天台は「事を廃して理を存するは所益弘多なり」(御書全集三四一㌻)といったのです。「理」とは法華経のことです。そういうふうに「理」と「事」を釈迦仏法では分けるのです。
ところが、日蓮大聖人の仏法におきまして、釈尊の仏法と比べたとき、釈迦仏法全体は、「理」になるのです。日蓮大聖人の教えたままやるのが「事」になります。それで、久遠元初の自受用報身たる日蓮大聖人様は、ただ、南無妙法蓮華経しか教えなかったのです。ですから南無妙法蓮華経そのままにやるのが「事」であります。釈尊の仏法が「理」になるのです。
「理」と「事」とは仏法によって違うのです。その仏法をたてられた仏様の教えどおりにやるのが「事」であり、その仏様の仏法をいろいろなかたちで書いてあるのが「理」であります。
こういうふうに「理」と「事」とは違います。
「一念三千」の「理」と「事」とは違う。「一念三千」とは御本尊様のことです。「事の一念三千」というのは末法の御本尊ということです。「理の一念三千」といえば釈尊の仏法です。