戸田城聖全集質問会編 107 死んだ人が迎えにきたという
〔質問〕 私の折伏した人が、このたび亡くなりました。そこの家は、五年間のうちに四つも 葬式をだしております。最初、祖父が亡くなり、次に孫、そして、その孫がケガをして死ぬまえに、「おじいさんのところへ行く」といっていたそうです。次に祖母が亡くなり、このときに孫の声がして、「おばあちゃん、迎えに行くよ」と聞こえたそうです。次に娘さんが喀血して亡くなった。このことが、いま、私の村で評判になっています。仏法的に、死んだ人が迎えにきて死ぬものか、どうなのでしょうか。
そういうことは、ありうるのです。なぜこういうことがいえるかといいますと、この大宇宙というものは、十界の生命なのです。地獄もあり、餓鬼もあり、畜生もあり、仏界もあります。ところが、この大宇宙に、その十界がありながら、なにもじゃまにならない。たとえていえば、いつもいうことですが、ここにドイツの電波もあるのです。また、アメリカの電波もあります。ラジオ東京もあります。NHKもあります。だが、けっしてじゃまになってはいません。私の話のじゃまになっていません。ところが、ここに機械をすえつけたら、じゃまどころか、うるさくて話などしていられません。しかし、ここでラジオ東京の波長と合わせれば、ラジオ東京がでます。けっしてドイツのことばはでません。
同じように、大宇宙のなかへ、われわれの生命は溶けこむのです。そして、おのおのは地獄なり、餓鬼なり、あるいは畜生なり、それぞれの生命の性格のなかへ溶けこむ「我」というものが存在します。それは霊魂ではないのです。また。死霊などというものでもない、「我」なのです。この苦しみがもつ生命の波長というものが、生きているものも十界の生命をもっていますから、同じその波長をうけるときに、そういうことばで聞こえたように思え、もしこれを精神学者にいわせれば「幻覚」というのです。
また、本人にはそういうふうに見えたり、感じたりする夢のようなものなのです。それは死後の生命の波長の影響なのです。これを生きているものが強くて、こちらから題目の波長を送れば向こうが浮かぶのです。そうでしょう。同じ波長は通ずるのですから、こちらの生命力で、仏界の生命力の題目の波長を向こうへ送ってやれば勝てるのです。逆に、こちらが弱いから、向こうの生命の波長をうけて、ちょうどラジオの機械みたいになってしまいます。そして、その音を自分だけが聞くのです。自分だけは見えるのです。そういうことは、仏法上、説明はできます。
だが、こちらの生命力がほんとうに強ければ、そんなことは、ありません。絶対うけません。逆に向こうを救ってやれます。それが仏法の哲理です。ありうるということです。それは、こちらが弱いからです。こちらがほんとうに強い信心になれば、そんなものはうけません。絶対うけません。反対に向こうへ波長を送ってやって、向こうを救ってやっていくのです。ですから、死んだ妻、死んだ先祖、これをいままでも、死霊だなどとだまされていたわけです。そのようなごまかしに、ひっかかってはいけません。そんなことをいったら、死霊ばかりいて、身動きがつかなくなります。