戸田城聖全集質問会編 86 どうしたら慈悲の折伏ができるか
〔質問〕 折伏はあくまでも慈悲の心をもって行えといわれますが、自分のいままでの折伏を考えてみると、慈悲でなくて、相手をいい負かそうという気持ちになってしまうのです。どうしたら慈悲の折伏ができるでしょうか。
折伏自体が慈悲なのです。慈悲の心をもって折伏するというが、あなた方、たいてい威勢よくやるでしょう。「やらないか、やれよ、やらないと罰あたるぞ」などと。だから脅迫しているなどといわれるのです。そんなことをやっても、なかなか折伏できるものではありません。
信仰させてやろうという折伏はいけないのです。自分の仲間をつくるみたいなのはいけません。それをつくりたいので折伏するというのはいけないのです。班長からいいつかったからとか、いい顔になりたいからとか。「どうだ、今月は三人やった。えらいものだろう」などと、そういうのはだめなのです。
折伏とは、相手を見まして、〝ああ、この人は気の毒だ〝と思う心から、じゅんじゅんと御本尊様のありがたいことを教えてやればいいのです。理屈などはいりません。貧乏して困っているとすると「ほんとうにお金持ちになりたいなら、このありがたい御本尊様を一生懸命信仰してごらんなさい」と。それでいいのです。それを他のことをいってもだめです。「なにしろ、方便品というのは、如是相、如是性……これは、一念三千のもとだから」などと、そういうことをいっても、だれも信心しません。それよりは、ほんとうに病気で苦しんでいる、医者がみてもなおせない、″ああ、気の毒だ、なおしてやろう″と、そういう気の毒だという気持ちが折伏の根本であります。
こういう折伏をした人があるそうです。ある人が座談会に行ったところが、「この信仰は金がもうかる。からだがじょうぶになる。商売が繁盛するからやりなさい」といわれた。行った人が「私はからだがじょうぶです。金もいりません。商売はやっていません。商売はやっていませんから、月給取りですから、商売繁盛しなくてもいいのです。私は、しかし、この信仰には、何か深いものがあると思う。それを一つ教えてください」といったら、「金もいらない、からだもじょうぶにならなくてもよい、商売繁盛しなくてもよいなどと、そんなやつはばかだ。早く帰れ」と。これはどうでしょうか。そういう折伏は正しいとはいえません。そういう人こそ道を求めているのですから、「そうですか、それでは、信じて題目をあげてごらんなさい。そこに深いものを味わうことができますから」と、これだけでいいのです。求めているのですから、教えてあげればいいのです。それを「おまえみたいなばかはだめだ」などと、これではだれも聞く人はいません。
これは初代の会長がよくいわれたことですが、認識と評価とは違うということです。よくこういうことがあるでしょう。子供が「あれは何ですか」と聞くのです。「あんなのわからないか、ばかだ」という。なにも子供は、ばかだ、利口だと批判してくれといったわけではないでしょう。一方は求めてきているのだから、「あれは何々だ」と答えてやればいいのでしょう。
夫婦げんかでもよく、こういうことがあるでしょう。「ああおとうさん、あれはどこへ置いたでしょうね」「ばか野郎、おまえそんなことがわからないのか」などと、ばか野郎といってくれと頼んでいるわけではないでしょう。知らないなら、知らない。あそこなら、あそこと教えればいいでしょう。このばか野郎などという必要はないわけでしょう。折伏にも、よくそれがありますから、気をつけて折伏しなければなりません。
それから。座談会あたりの、決のとり方ですが、私は直接見たわけではありませんけれども、まえに新しい人を並べておいて、「さあ、決をとります。あんたはどうです。やりますか、なにやらなきや、あんただめです。お隣はどうです。まだわからないのですか」「家へ帰って相談します」「こんなにいってわからないのは、ばかですね。帰ってしまいなさい」などと。あの決のとり方、えらく勇ましいのがあるそうではないですか。あなた方もやっていませんか。そんなことしなくてもいいと思うのです。
そうあわててやらんでも、「きょうは帰って考えてきます。おとうさんと相談します」「女房と話します」それなら、それでいいではないですか。それを無理やりに御本尊様を持たしてしまうものだから、おやじが怒ったり、女房が怒ったりして、御本尊様を不敬してしまうのです。そういう折伏はいけません。