戸田城聖全集質問会編 41 五座の御観念文について
〔質問〕 お経本の最後にある、五座の御観念文の「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と いうことについて教えてください。
はじめに、この観念文ということについて申し上げますが、観念というのは、心に思うということです。心に思うということは大事なことであって。御観念文を申し上げるときに、もしミソ汁のにおいがする。すると、とたんにお腹がすいたなあと思うでしょう。そうすると、それが御観念文になってしまうのです。
自分が一生懸命に題目をあげているのに、女房が題目をあげない、"ちくしょう、終わったらおこってやろう"と、こう思うと、それが御観念になってしまうのです。
五座の御観念文の意味は、この世の中がぜんぶ平和で、それで仏の国になっていただきたいという願いのことばなのです。すなわち法界とは現象界のことであり、小さく考えれば、商売、たとえば魚屋は魚屋の法界で、それが平等であり、夫婦生活もまた法界であり。夫婦は平等でなくてはならない。安同帰寂光とは、おおいに、幸福生活になろうということなのです。
だから、原子爆弾の実験などをやって人を殺したり、いやな思いをさせてはいけない。みなこの地球上は、ぜんぶ平和でいかねばならない。娑婆世界は、ぜんぶ平和でなければいけないという願いが、ここにあるのです。
これなら、わかるでしょう。自分だけ平和ではいけないというのです。″ちくしょう、ぶんなぐってやろうか"などと、御観念文をやってはいけません。口では、ぜんぶこの世は、寂光土になってもらいたいといっていて、腹のなかでは。ちくしょう、ぶんなぐってやろう〝などと、そういう御観念文は世の中にはないのです。
口でしゃべるのと、腹のなかとでは違う場合があるが、腹のなかで考えていることが、御観念文なのです。だから、御観念文というのは、そんなかんたんなものではありません。