戸田城聖全集 第二巻 質問会編 2 質問会のあり方

 

 このような大衆の質問会には、質問する人を大きく分けると二色あるのです。すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。

また質問を受けるほうにも、受ける場所によって覚悟があります。やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、それだけの腹がまえがいるのです。行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません。

ところが、仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願っているのがふつうなのです。それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい。

 質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞(いにょう)せられ」ということばが、まず最初にあります。

これは四つの種類の人に囲まれて、ということであります。その四種の人というのを説明します。

まず、影響衆(ようごうしゅ)という人がいます。経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは無問(むもん)自説(じせつ)というのです。釈尊の経典というのは、みな質問があります。質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。問いがあって答えをおこす。その時にその形のなかに、いまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人様では五種の説法をたすける人であります。また、当機(とうき)(しゅ)といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。結縁(けちえん)(しゅ)といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます。それからもっとも大事な発起(ほっき)(しゅ)といいまして、質問をおこす人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。自分だけのことではないのです。発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。それを発起衆という。

それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。それもけっこうであると思います。このなかにも病気で悩んでいる人がいるのですから、病気のことを聞いてはいけないということはありません。しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、こう承知したらどうですか。これを、当機衆というのです。ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば結縁衆です。このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば、これを影響衆といいます。

借金の話なら借金の話で、これも仕方のないことでしょう。仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。また学会に関することを聞くなら、それもいいことでしょう。ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。それだけを心得ていることです。発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。それならば支部長でも間に合うことだし。地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私は()におちないというなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。

また小児マヒの子供をもっているとするのです。このなかにもいるかもしれませんが、これは原則論としていつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。親が子に悩む宿命をもってきたのだから子供に罪はない。ところで折伏すれば小児マヒの子をもつ必要がないという宿習に変わる。子供はそこにおれないでしょう。するとどうなります。ちょうどシラミをもっていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。理屈はこれと同じことです。小児マヒにしても一つの魔ですから、その親のそばにいなくなる以外にない。ここが、いつも教えるところなのです。

これ一つがわかれば、小児マヒの話は聞く必要はないでしょう。それを何べんでも同じことを聞く、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと……。まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。借金の話がこっちで出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、なんだか裁判所へきたみたいです。そうならないように質問してもらいたいものです。