毒薬におかされた現代人〈譬如良医(ひにょろうい)

現代の混乱は「宗教的な混迷」 ― ボールディング博士

 私の敬愛するある経済学者は、現代文明の抱える諸問題を、三つの観点から分析しています。

 一つは、核兵器による人類の大量死、一つは、公害による人類の緩慢な大量死、一つは、価値観の混乱からくる人類の精神の大量死である。さらに、この三つの大量死という問題を現象的に、分析的に取りあげて、手早く解決策を打たなければ、人間の文明は崩壊してしまうであろう、と警告しています。

 何年か前に、『成長の限界』という統計を発表して、現代、地球文明が当面するさまざまに複合した問題を、総合的に調査研究しているローマ・クラブも、その設立の目的は、文明の終末をいかにして切り開くかという点にあったことは明らかです。

 私は、昨年(一九七三年)十月に、日本でローマ・クラブ総会が開催されたおり、会長のアウレリオ・ペチェイ氏に会い、話を交わしたことがあります。談たまたま宗教と文明の話におよんだとき、氏は「現在、ローマ・クラブのメンバーには、宗教関係者はいない。すベて科学者、経済学者、心理学者などで占められている。しかし、現代の問題を総合的に考えるならば、どうしても、宗教関係者をメンバーに加えることが必要になるでしょう」と語っていました。その後、この話がどういう進展をみせたかわかりませんが、とにかくペチェイ氏の心の中には、宗教に対する何らかのアプローチがあったことは明らかです。

 精神の大量死といい、アウレリオ・ペチェイ氏が宗教へのアプロ―チを構想していることといい、この奥には、私は、現代文明の問題というのは、その解決を宗教に求めはじめている、少なくとも、その方向に強い関心が向けられているということを、語っているように思うのです。

 最近、宗教喪失の時代という声が聞かれます。たしかに、既成宗教のなかには、とりたてた動きを始めることなく、惰眠をむさぼっているとしかいいようのない姿も見られます。そして、現代人の精神の日に日に衰弱し、干からびていくさまをつぶさに見ていくと、まさしく、宗教の喪失に想い到らざるをえなくなります。

 しかし、一方、この衰えゆく生命の力に新たな血を注入し、息を吹き込むのはペチェイ氏の言うように、宗教以外に求めることはできないことも、今の私には強い確信となっています。宗教喪失の一方で、宗教復権への静かな潮騒もあることは事実でしょう。また、こうした現代の混乱を、一言のもとに規定したのは『経済学を越えて』で著名な、ケネス・ボールディングです。氏は今、アメリカのデンバーにあるコロラド大学の広大な自然に恵まれた研究室で、次なる著作に余念がないと聞いておりますが、氏の規定は、「宗教的な混迷」と、簡潔です。

 

仏の「方便」とは、衆生を救うためにのみ使う

 ところで、この宗教的な次元に浸透した現代人の病いを、すべて二千数百年前、釈尊は、法華経の寿量品16のなかで「飲他毒薬、薬発悶乱」という言葉によって示唆しております。

「飲他毒薬 薬発悶乱」とは、誤って毒薬を服したために悶乱するということをいいますが、もちろん、釈尊は、現代文明の暗欝な様相を二千数百年前に見通していたというのではありません。釈尊が、法華経のなかで、「飲他毒薬 薬発悶乱」と説法した真意は、法華経の真理、妙法蓮華経という尊極なる仏性が、あらゆる生命的存在の中に貫かれていることを、人々は気づかずにいることを示したのであり、その結果として、人々が人生の四苦(生老病死)に打ち沈んでいることを教えたのです。

 この教えは、生命の原理を明かしたものであるために、時代を超越して、現代に迫ってくるのでありましょう。つまり、二千数百年前の釈尊の洞察が、現代社会の病める現実というものを、見事に射通しているというのは、東洋の英知の凝結が、いかに悠久な力をもっているかを、如実に示すものといってよいでありましょう。

 この「飲他毒薬 薬発悶乱」の一節は、法華経の七つの譬えのなかの「譬如良医」(譬えば良医の如し)に記されています。そこで現代文明の病いの真因を、法華経ではどうみているかを知るために、まず「譬如良医」の物語をとおして考えてみましょう。

 ― 昔、インドのある所に聡明な名医がいた。その名医は多くの子どもをもっていたが、あるとき、所用ができて名医は遠くへ長の旅に出なければならなかった。名医は、家に残す子どもたちのことが気がかりではあったが、やむをえず、子どもたちに種々言いふくめて旅立った。

 ところが、父がいなくなった間に、誰かが子どもたちに毒を飲ませたのである。子どもたちは、毒薬のために苦しみ、もだえた。子どもたちは、こんなときお父さんがいてくれたら、たちまち治してくれるだろうに、と思ったが、名医の父は旅に出ている。

 かなり期間が経って、名医は帰ってきた。そして、さっそく薬を調合し、子どもたちに飲むように言った。だが、その薬を前にした子どもたちのなかに、二種類の者が出た。一つは、素直に父の言うとおり薬を服した者、もう一つは、あまりにも毒が全身にまわってしまったために、父の持ち出す妙薬をも、信ずることができなくなってしまった者である。前者を、「本心を失わなかった者」といい、後者を、「本心を失った者」といいます。

 本心を失わなかった子どもたちは、父の勧めに従って服用したので、病気は治り毒も消えたが、本心を失ってしまった子どもたちは、あいかわらず地にのたうちまわって、苦しんでいた。

 そこで、老衰のあまり、余命いくばくもなかった名医は、やむなくまたふたたび、旅に出ることにし、旅先から使いの者をたてて「お父さんは亡くなりました」と、子どもたちに告げさせる。その使者の言葉を耳にした子どもたちは、本心を失った者も失わなかった者も、ハッと、我にかえり、嘆き悲しみ、本心を失った者も、それを取り戻して、父が勧めた薬を服用した。そして、子どもたち皆が、苦痛から救われ、父はそれを知って、ふたたび子どもたちの許ヘ帰った。

「譬如良医」の内容は、ほぼ以上のようなあらすじですが、私はこうした譬えに、いつもほのぼのとした人間の情感をみます。

 仏法というのは、このように人間の情を忘れず、広く理解を生むようにして展開されているのです。釈尊は、この物語をとおして、法華経の方便の意味を説いております。釈尊はこの物語を述べた後で、「諸々の善男子よ、心でどう思われるかな。もしや、この良医のウソつきの罪を、説こうとする人はありますまいか」と聴衆に聞き、聴衆は、それに答えて「その罪を問いません」と答えています。つまり、仏が用いる方便というのは、衆生を救うためにのみ使われるのであり、いわゆる、昨今、世間一般で使われるような「ウソも方便」というのとは、大きな違いがあります。

 

処方箋だけではどうにもならぬ病状

 さて、この物語に出てくる「本心を失う」とは、いったい何を意味するのでしょうか。それは自らの生命に内在する仏性の実在を忘失してしまうことを指しているのです。生命内在の厳たる光をおおいかくし、暗中模索の人生を譬えたわけです。

 現代人にとって、もっとも不幸なことは、人間にとってもっとも根本の人間の生死、生命の実相という問題を直視しないで、外界の政治、経済、科学などの事象にのみ目を奪われてしまっているところから生じております

 ここで私は、政治や経済、科学が「毒」であるなどというつもりはさらさらありません。むしろ、それらの正常な発展は人間社会にとって必要不可欠なものと確信しています。

 私がここで「政治、経済、科学などの事象にのみ目を奪われている」というのは、それらが相互に関連しあうことなく、それぞれが独自の路線の上を突っ走っている。そのために、もともと人間のために創造され発展したはずの政治、経済、科学が、いつのまにか、人間を抑圧する機能を備えてしまったことを、指摘したいのです。

 近ごろ、哲学の分野で、構造主義が盛んに取りあげられるようになりましたが、これは文字どおり、物事、存在を構造的に捉えていこうとする学問です。そして、基本的には、それぞれに枝分かれし、専門化を遂げていった諸学問を、もう一度、根本の目的である、人間のためという中軸に照らして、位置づけてみようという考えが、構造論の底流をなしているようです。こういった傾向は、哲学の領域に限らず、たとえば、人間と環境の関係から生態学が蘇り、人間と機械の関係で、サイバネティックス(生物や機械の伝達.制御の仕組みを、追究する科学)が台頭し、さらに、ボールディングらによって唱導されている、未領域間学問(学問の総合的見地)が脚光を浴びていることなどは、すべて、人間の手を離れた文化を、もう一度、人間の手に取り戻そうという試みから発している、といえましょう。

 ともあれ、文化の基調を支える思想的潮流は、人間へ人間ヘと流れていることは否めません。

 しかし、こうした思想の潮流が、はたして、どれほど有効打となるでしょうか。現代文明は、そうした流れに関係なく、絶望の深淵ヘと突き進んでいることも事実なのです現代社会の病状のなかには、ペシミスティック(厭世的)な材料が、あまりにも揃いすぎているのです。

 そうした病状は、たんなる処方箋のみでは、どうにもならない。要は、いかに効能書が克明であっても、それを使いこなす人間自身の生命の変革が図られていなければ、一枚の紙に等しいでしょう。それらの新たな宇宙の流れは、既存の学問のうえに、また一つ枝分かれして重なっていくでしょう。

 ボールディングが、「宗教的混迷の時代」と洞察した真意はどこにあったかは、私は寡聞にして知りません。しかし、少なくとも現代文明にトグロを巻いた毒は、宗教によってしか除去できない、という一面のあることを、その言葉から探りだしても、けっして穿(うが)ちすぎのそしりはうけないと思います。

 一方、日蓮大聖人の「撰時抄」という御書のなかに、大族王という王様の故事が引用されています。もともとの出典は『西遊記』にある話ですが、この王は、仏法を聞くために名僧を求めたが、誰も応ずる者がなかった。そこで王は怒り狂い、寺院を破壊し、僧を追放したといいます。

 現代文明の毒を取り除くために、法華経を弘める仏法実践者が、社会の要請、時代の要請に応えていく必要性のあることを、大族王の例は教えているといえましょう。混沌の地平に人間の生きゆく指標を、太陽のような宗教の存在を、意識するか否かは別として、本心では待ち望んでいるように思えてならないのです。