幸せは自分の手で克ちとろう〈法華経の功徳〉

"功徳""利益"は、自分の力で切り開くもの

 正確には忘れましたが、次のようなヒバリの親子の童話があります。夏も近づき、麦の穂は重く頭を垂れ、遠い山から吹きおろす風にユラユラ揺れている季節です。とある麦畑の一隅に、ヒバリの親子が巣をつくっていました。親ヒバリが餌を探しに行っている間、子ヒバリリたちは巣の中で静かにその帰りを待っていました。すると、その畑の持ち主が畑を見回りに来て、「そろそろ刈り入れどきだな。明日は隣りの……さんに手伝ってもらって刈ってしまおう」とつぶやいているのが聞こえてきました。

 すっかり驚いた子ヒバリたちは、親ヒバリが帰ってくると、さっそくこのことを報告しました。すると親ヒバリは、落ちつきはらって「あわてることはないよ。隣りの人に手伝ってもらうと言っていたんだね。まだ大丈夫」と言いました。そのまま数日が過ぎて、また農夫が見回りに来て、「さあ明日は……さんから刈り入れ機を借りて、全部一挙にすませてしまおう」とつぶやいて帰って行きました。

 子ヒバリたちは、またまたあわてて、親ヒバリに報告しました。するとまた、親ヒバリは、「あわてることはない。まだ大丈夫だよ」と言うのでした。それから数日がまた無事に過ぎて、ふたたび農夫が、子ヒバリがひそんでいる巣のそばに立ちました。そして「もうこれ以上おいておくと、みんな風に倒れてしまうな。よし、明日は、鎌で刈り入れをしてしまおう」とひとりごとを言いながら立ち去りました。子ヒバリたちからこのことを聞いた親ヒバリは、「さあ、みんなで引っ越しをしよう」と言って、その日のうちに巣を移してしまい、翌日、晴れあがった青空の下で、農夫は、汗を流してサクサクと麦を刈り入れていました。

 ― この童話が、他人に頼ったり、無いものをあてにしているうちは、なにも進まない、自分の力ですべては切り開いていかなければならない、ということを教えたものであることは、いうまでもありません。

 ところで、仏教で説く"功徳"とか"利益"というものも、その真の意味は、この童話の精神と同じものであるといったら、どうでしょうか。おやおやと、意外な感に打たれる人も多いのではないかと思います。

 

人間を矮小化(わいしょうか)する他力(たりき)の絶対化

 神仏の利益・功徳というと、一般的には、人間の力を超えた、なんらかの存在が、かよわき人間に恩恵を授けるものとして考えられがちです。たしかに、そのように説く宗教も少なくはありません。キリスト教、回教、日本の神道など、また、仏教の中でも他力的なものなどは、ほとんどそうです。それらに共通していえることは、人間を弱き者、罪深き者、無能な者としてみて、絶対的な力をもってそれを救う、という考え方です。

 このような考え方は、大変非合理的です。大体において、このような思考をもつ宗教が、超人間的な存在を見事に立証している例などは見たこともありません。その存在すらおぼつかない神や仏の助けを待って、自己の人生をそこにゆだねるなどということは、人間の本来の力、活力の矮小化といっても、過言ではありません。先の農夫の例の場合には、助けを期待した隣人や刈り入れ機は、現に存在するものであったから、まだ神仏の利益を期待するよりも、確かな根拠があったといえるのではないか。 ― 若くて、向こう見ずで、病弱という以外、とりたてて自分自身に関する悩みごとをもたなかった私は、こんなふうに考えたのでした。そして今でも、この考えは大筋において間違っていないと思っています。

 それならば"他から授かる"のではない"利益"とか"功徳"というものが、いったい、あるのか、と疑問に思われるでしょう。しかし、それが厳然とあるのです。すなわち、それが仏法の真髄である法華経の説く、利益、功徳なのです

 さて、話を進めるにあたって、利益と功徳の関係を整理しておきましょう。中国の天台大師の『法華玄義』という書物に、この関係について、次のように述ベられています。

功徳(くどく)利益(りやく)とは、()だ功徳利益にして、一にして異なり無し。若し分別せば、自益(じやく)を功徳と名づけ、(やく)()を利益と名づく」と。つまり、功徳と利益の本質は同じものであり、あえて立て分ければ、利益というのは、他に功徳を得させることをいうのであり、そして、その功徳とは、自らを益することだというのです。

 そこで話を"功徳"にしぼって、もう少しくわしくみていきたいと思います。功徳という言葉について、法華経の出典を見ると、分別(ぶんべつ)功徳品(くどくほん)17随喜(ずいき)功徳品(くどくほん)18法師(ほっし)功徳品(くどくほん)19などに、しばしば出ております。これは、法華経を持ち、弘通する人の、さまざまな功徳を説いたものです。そこに説き示された"功徳"の本義を知るためには、日蓮大聖人の「御義口伝」を引くのが直道です。

 それによると、①功徳とは、六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)の果報である。②功も徳も「さいわい」ということである。③功とは「悪を滅すること」であり、徳とは「善を生ずること」である。④功徳とは即身成仏のことである。⑤六根清浄それ自体が功徳である。以上の五点に整理することができます。

 

功徳の一つ「六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)」とは「生命浄化」のこと

 まず第一の「六根清浄の果報(かほう)」ということですが、この"六根清浄"という言葉は、すでにどこかでお聞きのはずと思います。そう、山岳信仰などで、山登りする人たちが口ずさむ言葉です。私も昔は、文字も意味もわからず「ずいぶんおもしろい掛け声だな、"ドッコイショット"の変形かな」と思っていたものです。

 六根というのは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの「生命の働き」をいいます。そのうち、前の五つは五官といって、肉体自体のそなえている働きであるのに対して、意根は「こころ」の働きです。したがって、六根清浄というのは、身体も心も、ともに清浄な働きをするということなのです。このことからもおわかりのように、宗教というものは、あくまで人間を離れたところには存在しないのです。

 それでは、清浄とはどういうことなのか。考えてみると、六根というのは、本来、人間生命が持っているすばらしい宝である。地球上のどんな価値あるものも、これにとってかわることはできません。にもかかわらず、人々が、この宝の価値を十分に発揮しているかとなると、はなはだ心もとないといえます。むしろ、その宝を使っていがみあい、他人をおとしいれ、自分自身も不幸に落ちこんでいる人が、なんと多いことでしょうか。それは結局、生命それ自体が濁っているからではないでしょうか。そのために、六根の作用も、清浄な働きを失い、曲がり、狂い、偏ってしまうのです

 もっとも、たとえば「眼」といっても、たんに肉眼だけを指すのではなく、物事の判断力も含むのであり、その作用を起こす根源を「根」といったのです。このような諸の根=生命作用を起こす根源が清らかになること、これが「六根清浄」の意味なのです。もっと簡単に一口でいえば、「六根清浄」とは、「生命浄化」であるということになります。

 功徳とは、この六根清浄の結果としてあらわれてくるものなのです。したがって、法華経の説く功徳とは、「棚からボタモチ」式に天から降ったり、地から湧いたりするものではないのです。

 自分自身を磨き、浄化していった結果として、生活の上にあらわれるものであり、それは、農夫が自身の力で麦を刈り取ったように、その人自身の生命活動をもって、能動的に開いていったものです。

 繰り返して言えば、六根は生命に備わった機能であり、豊かな生命力の顕現によって、その機能は正常に、溌刺と働いていく。そして、そのみずみずしい行動の積み重ねが、その人自身の姿の上に、生活、社会の上に、変革の力となり、実証となってあらわれてくる。これが功徳ということなのです。

 

仏法では""を生命の外には求めない

 次に、第二の「功も徳もさいわいを意味する」ということですが、ここで"さいわい"とは何かということになります。一口にいって、それは「生命の充実感」、真実の意味の「生きがい」であると、私は考えます。難に遭わなくてさいわいだった、いただきものをしてさいわいだ、などとも使われますが、心からの「さいわい」という実感は、能動的な行動のなかにあるものです。停滞、惰性、受身のなかには、暗い陰欝しかない、といえるでしょう。さきほどの六根清浄の果報の中身が、この"さいわい"という生命状態を指していると考えられます。

 第三に、「功とは悪を滅すること、徳とは善を生ずること」についてです。仏法でいう善悪とは、生命自体の善悪です。無慈悲な自分、煩悩に振り回されている自分を乗り越えて、慈悲ある姿、苦悩に挑戦し、それを切り開いていく自身をつくりあげることができること ― これが悪を滅し善を生ずることなのです。すなわち、この生命の本源的な転換にこそ、功徳の本義があるというものです。

 第四に、功徳とは即身成仏であるということ。即身成仏とは、聞きなれない言葉かもしれませんが、簡単にいえば、ありのままの自分でありながら、仏という力強い生命を、自身の胸中から湧き出させることができる、ということなのです。仏法は""というものを、人間の外には求めない。すべての人間の胸中深くに、その実体が秘められていることを発見したのです。法華経を信ずる功徳とは、この秘められた仏を、自身の生命の内から、輝きあらわすことができるという点にあります。現に生きている自分、その姿のなかに、最大限に、その生を謳歌する力が、こんこんと湧き出してくるのです。

 現実の人生、社会にあって、ヒゴイがすいすいと水の中を泳いでいくように、また駿馬が自在に、広々とした大地を駆けめぐるように、あるいは、朝日が生命力を満身にたたえつつ昇るように、すがすがしい、しかも力感に満ちた「生」となっていくということなのです。この意味からすれば、第一のところで、功徳とは「六根清浄の果報」が説かれていましたが、すでに「六根清浄」それ自体が、功徳であることになります。これが第五番目の、功徳の意味になります。

 これまで見てきたように、法華経に説く功徳とは、自身の生命を清浄にし、その中に、汲めども尽きぬ力、充実感がみなぎってくることです。自在に人生を生き、価値を創造する知恵と勇気とがあふれてくることですしかも、それは誰から与えられるものでもなく、自らの生命の内に咲いた"法の華"であります。一言でいえば、人間変革、自己完成こそが、法華経の"功徳"といえるのです