束縛されない自己の発見〈開三顕一〉
人間生活には法則が大事
私は春が好きです。気持ちが晴れやかに浮き立つのを覚えます。どうしてかといわれると、なんとなくね、と答えるしかできませんが……。だが、多少太り気味で寒がりやの私のことですから、冬の間、身を包んでいた重いオーバーから解放されるということだけでも、伸びのびした生活ができる。案外、理由はそんなところかもしれません。
考えてみれば、寒いというと衣服を重ね着し、暑いというと薄着になる。これは他の動物にはみられない人間独特のものです。渡り鳥は、冬になると暖かい地域を求めて飛びゆくし、動物の中でも両棲類や爬虫類は冬眠して冬を越す。ともに四季の変化に対応する方法を、人間以外の動物も、本能的に身につけています。
人間の独特さというのは、四季の変化、暑さ寒さに対して、いわゆる人工的な方法で対応しているところにあります。人間の、この自然への対応は、自然の移り変わり、法則というものを、理性的に知るとともに、それに順応するために衣服をつくりだした点にありますが、ポイントとなるのは、やはり法則性の認知と対応に求められるでしょう。
私は自動車の運転はできませんが、親しい友人の車に同乗して、いつも感心しているのは、そのハンドルさばきの見事さです。この自動車の運転も、自動車のこまごましたメカニズムを知る必要はなくとも、クラッチの操作のタイミングや、ブレーキ、ハンドル操作など、自動車を走行させるための知識、法則を実際に身につけていないと運転もできません。私のような、まったく法則を知らぬ人間がハンドルを握ったら、ものの十メートルも行かないうちに、大惨事が起きることは必至です。
さて、多少横道にそれましたが、ここで述ベたかったのは、法則を知ることが人間生活にとって大切な要件である、ということです。
法華経には、これまでにも触れてきたように、種々の教えが譬え話をとおして説かれています。今、ここで取りあげる「羊と鹿と牛の話」もその一つでありますが、この譬え話も、たんなる話として知っただけでは、価値を生じません。それはちょうど、自動車は知っているが運転できないというのと同じです。この話から、その奥に秘められている真理、法則を知ることが大事なのです。
なにか、はじめに結論を述べてしまった恰好になりましたが、いちおう、その話の内容を述ベてみましょう。
― 昔、インドに大長者がいた。長者の大邸宅には五百人ほど住み、生活を楽しんでいた。
ところがある日、火事になり、多くの子どものうち三十人ほどが逃げ遅れてしまった。長者は必死になって、早く逃げ出すように叫んだが、遊びに夢中になって、その声が届いても信用せず、屋敷から出ていかなかった。
いよいよ危険を感じた長者は、一計を案じた。それは子どもたちが、日ごろ珍しい玩具を好むことを思い出し、子どもたちを助けだすために「方便」を用いるのです。
長者が用いた方便というのは、「表にみんなの好きな羊の車、鹿の車、牛の車があるから、早く出てきなさい」というものです。
この言葉に引き寄せられるように、邸内の子どもたちはわれ先にと出てきました。そこで長者は子どもたちを火の粉の届かない安全な場所へ避難させ、自分はホッと安堵の胸をなでおろした。
長者の言葉を信じて出てきた子どもたちは、目的の「羊の車や鹿の車や牛の車」を早くくれるようにせがんだ。そこで長者は、今まで貯えてきた無上の宝物で、一つの立派な車をつくった。
それは力の強い大白牛(体の大きい白い牛)で引かれていたので大白牛車といった。子どもたちはみな大喜びで、その大白牛車に乗って自由自在に遊びたわむれることができた ― 。
この物語は、法華経の譬喩品に出てくるものです。これを通して経文では「三界は安きこと無し猶火宅の如し」と説いています。三界とは欲望の世界、物質の世界、精神の世界ということで、これにも深い意味がありますが、ともかくここではその説明を省略し、現実の世界という意味としておきます。それにしても、はるか昔の古典ではあっても、ずばり、混乱する現代社会をたとえているではありませんか。さらには火宅に遊ぶ子どもたちをとおして自分一個の安逸を貧り、遊戯にふけり、冷静に現実を直視しようとしない人間にありがちな性向を鋭く指摘しております。
長者は子どもたちを無理やり屋敷外へ連れ出そうとしたのではありません。あくまでも子どもたちの自発的な意志を尊重しているのです。また長者は、日ごろから子どもたちが、いったい何を欲しがっているかを見きわめています。人間学的にいうならば、人間をどう育てるかという立場において、日ごろから子どもたちが何を欲しがっているかを知り、しかも子どもたちの自発の意志を伸ばそうとしていたといえます。
こちら側の一方的な判断に頼らず、相手の気持ちになって接していく。このことは、人間関係を考える場合にも、大事な基本姿勢でありましょう。
究極は仏の力を借りず、自力で法の悟りを開け
譬喩品は、この文のあとで次のように教えています。
「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は諸の患難多し 唯我れ一人のみ 能く救護を為す 復教詔すと雖も 而も信受せず 諸の欲染に於いて 貧著深きが故に 是れを以って方便して 為に三乗を説き 諸の衆生をして 三界の苦を知らしめ 出世間の道を開示演説す 是の諸子等 若し心決定しぬれば 三明及び六神通を具足し 縁覚 不退の菩薩を得ること有り 汝舎利弗 我衆生の為に 此の譬喩を以って一仏乗を説く 汝等若し能く 是の語を信受せば 一切皆当に 仏道を成ずることを得べし」
詳しい解説は省略させていただきますが、ここで釈尊が言わんとしたところは「一仏乗を説く」という文に集約されます。この「一仏乗」というのは、その前に「三乗を説き」という語に相対されるものですが、次に、この点について少し触れてみましょう。
三乗というのは「声聞」と「縁覚」と「菩薩」の三つをいいますが、声聞とは「仏の声を聞く」ということで、釈尊の教えを聴聞する者、すなわち弟子のことです。また声聞には、教えの内容を理論的に理解しようとする精神の働き、知的態度が特徴的です。
また、縁覚とは独覚とも呼ばれ、教えをとおし、それを縁として"独り"で"覚る"ことを本分とするところからきています。したがって、この縁覚にみられる精神的機能は、ある種の芸術的センスをもったものと考えることができます。
次に菩薩ですが、菩薩の本領は仏の教えを実践するところにあります。仏の教えを理論的に理解すると同時に、それを行動の次元で証明するのが菩薩の役割であり、特質なのです。
ここに、前の声聞、縁覚(これを二乗という)と菩薩の違いがあります。
以上で三乗については概略、その内容を把握されたことと思います。そして「三乗を説き」というのは、今のべた「三種類の人々を対象とした教えを説いた」ということで、それぞれに適合した説法のことです。法華経以外の教えは皆、三乗の教えの範疇に入るものですが、では、この「三乗の教え」と「一仏乗の教え」との違いはどこにあるのでしょう。また、「一仏乗の教え」とはなんでしょうか。
三乗の教えの特徴は、釈尊があくまでも説法する相手の側に立って、つまり聴衆の理解能力を考えたうえで、説く法の内容が取捨選択されています。たとえていえば、一時、アインシュタインの相対性理論を説明するのに、浦島太郎の伝承童話がよく使われたようなもので、相手が中心であり、したがって、説かれる法の内容も相対的な域を脱することはできません。
それに対して、一仏乗の教えとは、釈尊が修行の結果到達しえた真理、法の実体というものが説法の中心となり、それを聴く大衆の理解力を中心とはしていません。それは仏が無慈悲だからではないのです。真実の法を明確にすることによって大衆は、これまで釈尊の説法によりかかって修行を積んできたのが、自力で法を悟ることが可能となったわけです。
釈尊は法華経で自らの悟った法(サンスクリット語で、ダルマ)をすべて明らかにしました。そして、それ以外のもろもろの教えは、三乗の教えで相対的なものであることを断言したのです。さきにあげた譬喩品の「貧著深きが故に是れを以って方便して為に三乗を説き」という文章が、そのことをよく示しています。
このように、三乗の教えを開いて、一仏乗の教えである法華経を説くということを「開三顕一」(三乗を開いて一仏乗を顕す)といいます。
以上のように「羊の車、鹿の車、牛の車」は、それぞれ声聞、縁覚、菩薩の三乗を表わし、大白牛車は一仏乗を表わしていますが、方便品にも「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしむ)とあるように、仏の目的は自分と同じ境涯に人々を導くことにあったのです。つまり、仏界を人々に開かしめるところにあり、これが仏法の根本原理なのです。これが、人間は神の似姿であり、神にはなれないとするキリスト教とは、根本的に異なるところのものです。
しかし、「等しくする」といっても、けっして人間個々の特性や性格などをおしなべて画一化してしまうということではありません。むしろ、人間ひとりひとりの特質を存分に発揮させるところに主眼点があります。
日蓮大聖人の「御義口伝」のなかに「桜梅桃李」という言葉がありますが、これは桜には桜の特質、梅には梅の、桃には桃の、そして李には李の特質があるように、それぞれ人間の個性を最大限に発揮させていくのが法華経であり、妙法蓮華経という法の華を、生命の中から引き出し、現実の世界に開かしめていくことを意味しています。
大白牛車は悟りの象徴
ここまで述べてくると、あなたは、「羊と鹿と牛」の話が、なぜ法華経のなかに取り上げられたか、というわけがおわかりのことと思います。
羊の車、鹿の車、牛の車を欲しがるというのは「貧著深き」人間のつねであり、仏法は、まず、この人間の赤裸々な姿を見つめつつ、その奥に「貧著」に束縛されない、自在な自己を発見しています。大白牛車という金銀の宝物で飾られた乗り物は、仏法の悟りを譬喩的に述ベたものでありこれは法華経の精神からいって、生命の尊厳を言い表わしたものにほかなりません。
冒頭で、私は季節の話をしたり、自動車の話を出して法則を知ることの意味を述べました。法則を知るということは、それだけ自由な活動の範囲が広がり、生活をエンジョイできるということに通じます。法華経の目的は、生命の法則を知るということにあり、それによって、生命の自由を無限に高めていく点にあります。生命の自由とは、自らの煩悩によって束縛されない自己の発見、さらに他者への幸福のための自我の拡大ということなのです。
私は前に、プラトンの『国家』を読んだことがありますが、そこに出ている話で、有名な「洞窟のたとえ」というのがあります。そこでは、人間は洞窟の囚人にたとえられていますが、手足と首を縛られているので、前方の壁のほうしか見ることができない。そして、光は後方の壁の上から入ってくるので、囚人に見えるのは自分たちの影だけである。つまり影の世界しか知らないのです。このことをプラトンは『国家』の中で、師のソクラテスに語らせていますが、これは真実を知らない人間の虚構性をついた話として有名です。
影の世界には、影の法則というのも当然あるでしょうが、それは主体である人間の自由が、ちょうど手足を縛られ、首を前方に固定されている囚人と同じで、確保されていません。この場合影の法則を知るということは、日常生活にとって必要なことではありますが、もっと重要なことは、縛られた手足、固定された首の自由を回復するということでしょう。プラトンがソクラテスに語らせたこの啓示は、興味深い。
ところで、法華経で説く哲理の数々は、仏界という実像の幸福感、自由感から、三乗も、いな、地獄界まで、一切を用いていく哲理なのです。さまざまな働きを持つ人間生命の活動を忌み嫌うことなく、人間であることへのかぎりない共感に立って、人間の持つ最高の善性というものを触発、高揚させていくのが、真の仏法ではないでしょうか。