逞しく生きよ〈煩悩即菩提〉
絶世の美女も死んでしまえば白骨
法華経以外の経文のなかで、女性がきらわれているのは有名ですが、これもその一つで、骨相観というのがあります。女性は仏道を妨げる働きをするから、若く美しい女性が現われても心を動かされてはならない。そのために、もしそのような女性が現われたならば、その女性が死んで墓の中に入り、その中で白骨になった姿を想像せよ、というのです。人間は無常を免れないものであり、必ずそうなることは疑いない。その姿を想像したならば、心を動かされることもないであろう、というわけです。
なんともはや、すごい修行であるという以外にありませんが、ことほどさように、仏法を修行する人々は苦心惨憺して、自らの生命のなかに巣食う煩悩と戦ったようです。衆生の心身を迷わせる妄念こそ、一切の不幸の原因であると考えたのが、小乗仏教の特徴であるといってもよいようです。
仏教の説くところを、順を追って説明してみますと、次のようになります。この世の中の現象はすべて無常である。すなわち変転してやまないものです。ところが、人間はそれを常住不変のものと思って執着する。そこにさまざまな葛藤が起こる原因があるわけです。恋人を失いたくないと思い、富を死守しようと願い、死にたくないと考えて、生に執着する ― 考えてみれば、無常を無常と認めない妄想からきているではないか、ということになります。そして、それらを起こしているのが煩悩であるというわけです。
煩悩としては、さまざまな事物に対する欲望(貧)、また憎しみ、恨み、怒りの生命(瞋)、ものごとの本質をわきまえない愚かさ(癡)、自分を大したものだと思う慢心(慢)、真実を信じようとしない生命(疑)等々があげられています。ひとくちに言えば、広い意味での人間のエゴのなせるわざであるともいえましょう。
したがって、この煩悩を断ち切る以外に、真実の悟り、人生の喜びは獲得できないという考えに立ちます。小乗仏教徒における仏道修行は、かなり厳格なものにならざるをえないわけです。
これは仏教にかぎらず、その前にあったバラモン教などにもあった考えですが、現在のわれわれの感覚からすると、言語に絶するものがあります。
たとえば、呼吸を止める修行というものがあるのですが、まず最初に鼻や口から息を止める。
われわれなら、もうそれで一巻の終わりですが、そうすると、耳から息が出入りするらしい。そのときの苦痛は、耐えがたいものがあるという。その耳からの呼吸も止め、ついには全身に至るという壮絶な修行であるといわれる。
ふつう、針のムシロの上にすわったり、火のついた炭の上を裸足で歩いたりする修行を耳にしたりして、すごい修行だと思うものですが、それなどまだ穏やかなものなのかもしれません。小乗教では僧侶に二百五十の戒律、尼僧では、さらに上回って四百近い戒律を設けていますが、まさにがんじがらめとは、このことでしょう。
考えれば、そのような戒律など、守れる道理がないのです。たとえば、もっとも初歩的な戒律である不殺生戒もそうです。われわれ人間は、毎日無数の生き物を殺しています。肉食をしないとしても、では、植物は生物ではないのかということになる。不妄語戒(ウソをついてはいけない)にしても、守った人など皆無でしょう。私はウソを申しませんという人こそ、大ウソつきであるといわれるぐらいです。
それに、もしそれらの戒律を守ったとして、果たして煩悩を断じ切れるのか。実際には、過酷な修行を貫いた仏教僧たちも、煩悩を断ち切ることはできなかったようです。そこで小乗教の最後の悟りは、煩悩を生み出しているわが肉体を滅することを要請するようになる。これを灰身滅智といっておりますが、文字どおりわが身を灰にして智を滅し、二度と煩悩の集積であるこの世には生まれてこないという修行です。悲惨という以外にありません。これが究極の悟りなら、その思想は誤っていると断言しても、けっして過言ではないと私は思います。
煩悩はおおいに燃やすべきである
じつは、わが肉体を滅する以外に煩悩を断ずることができないという事実の中に、解決の鍵があるのではないでしょうか。小乗教徒たちは、その事実に突き当たったときに、発想の転換をすべきだったと思うのです。
それは、煩悩というものは、わが生命の存するかぎりある、いわば生の証であるというところから出発すべきだということです。生きているかぎり煩悩はある。ならば、煩悩を断じようとすること自体、誤った発想ではないでしょうか。ここで法華経の煩悩即菩提の原理が浮かびあがってくるのです。
考えてみれば、煩悩というものがあるからこそ、人間はさまざまな努力をし、大げさにいえば文明の発達もあるのではないでしょうか。冬を暖かく過ごしだいと思うからこそ、暖房器具を発明し、夜も明るくと考えて、電気も使用されるようになったのです。早く目的地ヘ到達したいという欲望がなければ新幹線も生まれなかったにちがいありません。もっとも、騒音公害も起こしているのは問題ですが ― 。
少し恥ずかしいことなのですが、私の小学校時代に、ちょっと好きな女の子がいました。みんなからもアイドルになっている子でした。今では名前も忘れてしまったほどですが、その子からよく思われようと思って、一生懸命勉強したものです。それは初恋と呼ベるほどのものではないのでしょうが、淡い思慕のようなものが、ひとつのエネルギーとなって私の生命をたきつけ、勉強への意欲となって噴出したのでしょう。おかげで勉強が好きになり、学校へ行くのが楽しみになったほどです。
煩悩というのは、いわば生命の「エネルギー」みたいなものではないでしょうか。そのエネルギーを失わせ、断ち切ろうとするのは人間の自然の生き方に反するものだとも思うのです。そのエネルギーをどう生かし、どの方向に向かわせるか、そこに発想の原点を置かなければならないはずです。
法華経を締めくくる経文として有名な普賢経に「煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得」とあります。
さまざまな煩悩、欲望を断じ尽くすことなく生命を清らかにし、さまざまな罪を滅することができる法を説いたものです。この考え方の原型は、すでに大乗経、たとえば般若経の中などにもあるのですが、法華経で明確にされたものです。
日々の生活の中で、悩み、苦しみ、煩悶する生命 ― じつは、その生命の中にこそ悟りがあるというのが煩悩即菩提の原理です。というより、悩みがあるからこそ、悟りもある。悩みを避けるところに悟りがあるのではなく、悩みと対決し、その本質を見つめ、それを自在に使いこなしたところに、真実の力強い悟りがあるということです。人生を生きぬく活力は、その時、脈々と生じるのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、執着を離れるということを、執着を明らかに見ると読め、と言われています。
自らの生命の中で動く煩悩の火を明らかに見つめ、その火を、現実生活を賢明に処する知恵の灯に変えていくこと、それが煩悩即菩提なのです。また「御義口伝」では、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」とあります。煩悩という薪がなければ、菩提の火は現われないということです。
煩悩をなくす必要はない。恐れず見つめ、自由自在に使いこなすだけの力強い主体を確立できれば、煩悩のエネルギーは、自身を大きく前進させることに働くはずなのです。
煩悩を大いに燃やせ ― とはまた、ずいぶん思いきった発想です。大胆だともいえます。しかし、煩悩を燃やしても十分にコントロールできるだけの人間主体の確立を説いているのですから、それが当然だともいえましょう。また、法華経は、それだけの包容性と力をもった経文なのです。この人間洞察に立脚するならば、私は人間であることへの愛も、慈しみも生まれることと思います。
主体性ある「現代の主人」となれ
少し話が違うかもしれませんし、ずいぶんと昔になりますが、私は先輩に自分は怒りっぽくて困っているがどうしたら治るか、と質問したことがあります。その先輩は、戸田前会長の言を引いて説明してくれました。
「怒りっぽいということが、どうして治さなければならない性質なのか。それは確かに、相手の話を聞かないで、一方的に怒るというのは悪いことかもしれない。しかし、生命を傷つける存在、邪悪に対して怒りっぽいということほど立派で素晴らしいことはないではないか。悪を見て怒らない人間のほうが、はるかに軽蔑すべきである。怒りっぽいという性質をどう変えるかではなく、どの方向に生かしていくかが大切なのだ」と ― 。
私は、あなたに、煩悩を大いに燃やそうと訴えたいのです。
少し暴言に聞こえるかもしれませんが、傍観者になり、無気力な存在でいるよりは、煩悩を燃やし煩悶する人のほうが、ずっと人間的であり、生きているという実感がいたします。そして大いに苦しみ、悩み、その中から真実の道を求めるのが、人間としての人生の在り方ではないのかと思うのです。
もちろん、エゴむきだしの煩悩がまかり通れば、世の中、骨肉相食む修羅場になることは間違いありません。それを防ぐためには生命の奥底から、煩悩を使いこなせるだけの「生命力」を確立しておく必要がある。そこに力ある法華経の存在価値を認める理由があるわけですが、そうしてこそ、人間は主体性ある「現代の主人」となれるのではないでしょうか。
管理社会の部品と化し、情報に踊らされて、自分というものを見失った人間は、もはや人間とはいえないでしょう。「自分」というものをもち、そのゆえに悩んでいる人のほうが、私は好きです。
法華経の煩悩即菩提は、煩悩というものを大胆に受け入れ、そのなかから悟りを見つけようとした革命的な思想の経文であるということができます。その中に、現代人を蘇生させる鍵がひそんでいるように思うのです。