仏教における法華経の位置

「コーヒーのないクリープ」

 仏教を会得するための視座を手に入れたところで、今度は、具体的に密林のなかに分け入って、法華経と他の経典との根本的な違いがどこにあるかを、探索してみましょう。

 日蓮大聖人は、先ほどの「蒙古使御書(もうこつかいごしょ)」のつづきに、明瞭な指針を示されています。

「外典の外道・内典の小乗・権大乗等は(みな)()(しん)の法を片端(かたはし)片端(かたはし)()きて候なり、(しか)りといへども法華経の(ごと)く説かず」

 仏法では、あらゆる思想、哲学を大きく二つに分けます。そして仏教経典を内典とし、他の思想、哲学をすべて外典の外道と呼んでいます。仏教のなかでも、小乗(しょうじょう)(ごん)大乗(だいじょう)(じつ)大乗(だいじょう)(法華経)などの区別をもうけていますが、ここでは、法華経と他のあらゆる経典、思想、哲学の二つに分けて考えることにします。

 そうしますと、法華経以外の経典、並びに他の思想などは、生命の無量の展開の「片端片端説きて候なり」ということになります。

 すなわち、一個の人間生命を、それぞれの立場、角度から、部分的に説き示したのが、小乗とか大乗といわれる経典です。

 ちょうど、これは昔あった話ですが、目の見えない人たち(この()()は、人生に対して部分しか見えない人のことを指しています)(ぞう)()でて、自分の触れた部分から象をさまざまに想像したという群盲評象の譬えのようなものです。

 足だけをさわった人は、象は、丸太ん棒のようなものだ、と言うでしょう。耳だけをさわった人は、象というのは、大きなうちわのようだ、と表現し、腹だけに触れた人にとって、象は、平べったい壁のように思われるでしょう。物事を見究める場合、多くの人はこうした誤りを犯すものです。

 いずれも、部分的には正しくても、全体観では大きな誤りを犯しています。部分観だけの認識から、全体像をえがきあげたから、このような誤りが生じたのです。

 外典のなかで、フロイトやユングの会得した学問体系は、生命の大海の比較的上層の領域に相当するでしょう。

 仏教に入って、小乗仏教の原典でもある阿含経は、私たちの生命の内部にうずまく煩悩に着目しました。九十八、あるいは、百八つの煩悩を数えあげています。これらの煩悩が人間の不幸、苦悩を現出するというのは正しいのですが、この経典では、厳しい戒律によって、外から煩悩を断とうと試みたのです。

 煩悩は生を営むかぎりつきまとうものであり、煩悩を断絶することなどできるわけがありません。喜怒哀楽の情あっての人間であり、もし人がそれら一切を否定しさることができるとしたならば、人生はいかに無味乾燥となることでしょう。それを強行すれば、ときには、生きることさえも嫌悪する人間性破壊の宗教とならざるをえないのです。

 権大乗のなかの華厳経(けごんきょう)は、生命自体がいかに荘厳なものであるかを紹介した経典です。

 また、般若心経(はんにゃしんきょう)は、般若、つまり、生命具備の知恵の一面を説き明かしています。

 しかし、生命の姿が荘厳であると紹介しても、また、すばらしい知恵の働きを示されても、本来荘厳であるべき姿を現出できず、知恵の働きが衰えはてた人間にとっては、いずれの経典も生命変革の原理とはなりえないのです。

 生命内在の英知を顕現化し、生命を荘厳ならしめる本源的な力は何にもとづくのか、宇宙大のエネルギーをはらんだ生命の根源力を開発するにはどうすればよいのか ― それらすべてに解答を与えたのが、法華経です。

 法華経のない釈尊の教えは、平たくいえば"クリープのないコーヒー"というより、むしろ"コーヒーのないクリープ"のようなものです。

 

 

数々の譬喩と事例で生命の宇宙を説く

 法華経以外の経典が、広大な生命流転の片端片端を示したのに対し、法華経は、他の経典を統合しつつ、生命の全体像を浮かびあがらせているのです。法華経が、釈尊の教えの集大成であると称される理由も、ここにあるといえましょう。

 法華経は、生命の全体像を、統合し、完壁なまでに説き明かすがゆえに、人間生命内在の知恵を開発し、慈悲の力を湧きあがらせる生命の本源力を示しうる、経典となりえたのです。

 生命のはらむ無限の可能性を、法華経では、ある時は、何十万の衆生が集まった儀式をもって示し、ある時は、想像を絶する巨大な宝塔(七つの宝で飾られた宝の塔であり、万人の生命内奥に実在する宇宙大の生命を表わしている)が、空中に出現するという驚天動地の出来事で表わし、あるいはまた、大地を叩き割って、多くの"地涌の菩薩"と名づける大慈悲の生命が湧現することで表現しています。

 つまり、宇宙の源流にまで根ざした一個の人間生命の全体観を、種々の譬喩とか事例を縦横無尽に駆使して、説こうとしているのです。

 そして、宇宙森羅万象は、一個の人間生命に収まり、そこから無量の展開を織りなしていくのです。

 法華経の開経(本論を起こす経)とされる無量義経には「無量義とは一法より生ず」と記されていますが、無量の義として展開する生命哲理の根源に位置する一法、万物創造の原動力をはらんだ一法を「妙法蓮華経」であると説き明かした経文が、法華経なのです。

 ここまでくれば、法華経が内典、外典のすべての思想、哲学を生命哲理の部分観として位置づけながら、自らは、すベてを総括した中核に、その王座を占めている事実が明らかになったはずです。