仏法の"密林"をどう踏破するか

 トインビ―「無意識の奥にある人類共通の生命」

 小さいころから私はよく夢をみます。誰でも、一日数回は夢をみているそうですが、私の場合は、不思議に目覚めたあとでも鮮明に残っていることが多いのです。

 大きな犬に追っかけられて、どんなに一生懸命足を動かしても、少しも前に進まない夢とか、断崖絶壁から突き落とされそうになり、助けを求めた瞬間に目覚めたときなど、恐怖の余韻が後を引きます。反対に、日ごろから、(にく)からぬ情熱を寄せていた少女と出会ったとたんに、現実に引きもどされたくやしさを味わったこともあります。

 夢とは不思議なものです。もう数年間も顔を見ない人が突然現われたり、日本にいながら遠い異国の情緒にひたっていたり、そうかと思うと、突如として大空に浮きあがるなどという、物理的に不可能なことが、夢のなかでは平然と起こっています。つまり、覚めているときの常識がまったく通用しないのです。

 この夢に焦点をあてて、夢の湧きでる源泉を、探し求めた一人の心理学者がいました。

 深層心理学を開いたフロイトです。彼は「夢は無意識への王道である」と言っていますが、この著名な心理学者は、夢を探索することにより、私たちの意識の底に広がる広大な無意識の領域を発見したのです。

 意識を、大洋に浮かぶ氷山の海面上の部分とすれば、その奥にある無意識は、海面下に隠された氷山の塊りに譬えられるでしょう。いうまでもなく、氷山の頭の部分は、海に没した巨大な塊りの一部分にしかすぎません。

 同じように、私たちが覚醒時に意識している精神活動は、その奥に広がった無意識層のほんの一部にすぎないのです。

 夢は、こうした私たちの無意識の層から、意識層を突きぬけて発現してくるのです。このなかには、人間生命生誕以来の、すべての記憶が貯えられているのです。

 フロイトの系統をひく哲学者・ユングは、夢にものぼりえない生命の深層を見いだしました。

 彼は、それを"集合無意識"と命名しています。つまり、この領域では、すべての人の心が融合し、巨大な生命の海となって脈動しているというのです。

 人類のすべての心を支える生命の大海には、この地球上に人類が誕生してからの、ありとあらゆる遺産が流れこんでいるのです。"人類の記憶"といってよいでしょう。

 三年ほど前、池田会長がトインビー博士と対談したおりにも、ユングの"集合無意識"に話が及んだと聞いています。博士は、次のような巧みな譬喩を用いていたそうです。

 人間の心は、個人的な無意識のもう一歩奥に、人類共通の生命をもっている。二つの無意識の関係は、ちょうど二重底のようになっているというのです。ほとんどの人は、上のほうの底には気がついても、その底を引きあげれば、さらにも一つの領域があるなどとは、それこそ、夢にも思わないでしょう。

 なにしろ、夢にさえ姿をあらわさない生命の深奥ですから ― 。

 時代劇などを見ていますと、重箱の二重底の下のほうには、たいてい、大判小判がひしめいていますが、私たちの心の奥には、人類の築きあげたあらゆる"精神の宝"がそなわっています。

 それも、時代劇に出てくる商人のように、あくどい商売でもうけたものではなく、生まれながらにして、私たちの生命にそなわった財産なのです。

 

「あらゆる宇宙の実在が一個の人間生命にある」

 西洋の学者が探索したのは、現在でも、この領域までのようです。ところが、東洋においては、すでに釈尊の時代に、人類共通の生命を突きぬけて、植物や動物の生命さえもはらみながら、大宇宙そのものの根源にまで到達していたのです。

 釈尊の仏としての覚悟は、一人の人間生命を支え、そこに無限に広がりゆく大宇宙の根源ヘの直視であり、直入であったのです。

 日蓮大聖人は、「蒙古使御書(もうこつかいごしょ)」のなかで、仏法の洞察を明瞭にえがかれています。

所詮・万法は()(しん)に収まりて一塵もかけず九山(くさん)八海(はっかい)も我が身に備わりて日月・衆星(しゅせい)も己心にあり、然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児(えいじ)の水火を怖れざるが如し

 万法、すなわち宇宙の現象とか法理、地球、太陽、月であれ、あらゆる宇宙の実在がすべて一個の人間生命のなかに含まれているとの言葉です

 こういうと、ひじょうに不思議に思われる人がいるかもしれませんが、 ユングの"集合無意識"までくれば、もう数歩のところで、宇宙生命の源流を洞察しぬくことも、けっして不可能ではないでしょう。

 それにしても、わが身に宇宙大の広がりがあり、宇宙万象を生みだす根源力がそなわっているとしても、その事実を実感できる人は、きわめて少ないのではないでしょうか。

 ソクラテスは"汝自身を知れ"と言いましたが、私たちが自己自身を知ったとしても、どうも私たちの生命の奥には、あまり期待できそうなものは発見できない、という人がいるかもしれません。つくづく"自分はダメな人間だ"と結論を引きだす人もいるでしょう。

 そういう人は、生命の表層に出没する欲望とか衝動とか、エゴイスティックな自我だけが目について、その内奥に広がる生命の海の実在には、いまだに盲目であると考えられます。

 どんな人の生命にも、万物を育て慈しむ力と知恵が内在しているのです。宇宙をも動かす巨大な生命のエネルギーが充満しているのです。ただ、ほとんどの人が、万物の源流にまで到達できないだけにすぎません。

 仏法は、生命の根源に至り、宇宙と生命の本然的な姿、実相をありのままに知見することに成功しました。そうした仏陀(仏=悟った人)の覚悟が、東洋三千年の民族の心を流れるうちに、種種の経典となって結実したのです。

 宇宙と生命の根源から湧きいずる万物生起の法と力を、すべて説きあかそうとするのですから、けっして容易なことではありません。仏陀の覚悟にもとづきつつ、じつに多くの仏教者の、血のにじみでるような努力がつづきました。

 その結果、私たちの手もとには「八万法蔵」といわれる膨大な量の経典となって伝えられることになったのです。

 

仏法は密林、踏破には生命哲理の視座から…

 日蓮大聖人は、きわめて明瞭に「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(『三世諸仏総勘文抄』)と述べられています。

 つまり八万法蔵は、宇宙生命とともに律動する、一個の人間の生命を説きあかしたものにほかなりません。また逆にいえば、八万法蔵は、生命哲理の無量の展開であると規定できましょう。

 

 一つの例を、お話しましょう。

 ある人が、小学校のころからずっと日記をつけてきたとします。最初のころは、日々の出来事を記していたのですが、高校入学ともなれば、その人自身の生命の変転に興味を持つようになりました。青春期は、誰でも、身体と心が揺れ動きやすいものです。精神が敏感になり、情熱が嵐を起こすこともたびたびです。

 その人は、自分の生命の動きをできるだけ克明に、日記に書きつけるよう心がけました。その人自身の生命の記録です。それでも、その人が日記に書きつけられるのは、意識にのぼった領域だけにすぎません。意識の奥の心の大海の様相は、生命そのものには刻みつけられているでしょうが、記録としてはとどまっていません。

 時々の意識活動のほんの一部を書きのこすだけでも、二十年間もたてば、大学ノートにして数千冊にもなります。もし、無意識の心の流転まで記すとなれば、それこそ、山のようなノートが必要でしょう。

 実際に、このような体験をもっている人はいる、と思います。まして永劫の過去から無限の未来へと流れゆく万物のすべての動きをとらえんとした仏法が、その哲理を伝えるのに、いかに多量の教典を必要とするかは、推測に難くないと思われます。

 昨今、心ある人のなかには、真剣に仏法哲理を学び、限りない知恵を汲みだそうと努めている人もいるようです。ある人は、原始仏教の経典に興味をいだき、また、他の人は、深層心理との関連から唯識系の教典に焦点をあてはじめています。オカルト・ブームに代表されるように、心の奥の神秘に惹かれる人は、密教とか、ヨガの実践におもむいています。

 しかし、興味あるところから手をつけるのはいいのですが、一度、仏教の内部に足を踏み入れたとたんに、あまりの複雑さに、行くべき道を見失ってしまうのではないでしょうか。

 八万法蔵は、奥深くうっそうとした原始林にたとえられましょう。ひとたび迷いこめば、容易に抜けだせない熱帯地方の密林を想像してください。太陽の光もとどかず、道らしい道もない密林を踏破するには、正確な磁石をたずさえていなければなりません。つねに方角をたしかめ、全体観に立つことです。

 仏法の密林を踏破するにあたって、全体観を与え、いかなる方向に進んでいるかを明確に指し示すものは、「仏法とは生命の哲理である」との視座(根本的な立揚に立って考えること)にほかなりません。

 この生命の哲理という点に視座をおいて、つねにたしかめながら、仏法哲理の密林に分け入ってこそ、正確な仏教の体得も可能になるのです。

 たとえば、生命哲理の視座から、自分の探索している部分が、生命の現象面であると判明したとします。

 そうすれば、今度は、もう少し、心の領域に分け入ってみようと考えることもできるわけです。

 また、人によっては、逆の方向に進む場合もあるでしょう。

 私は、仏法の原始林を踏破しようと志す人に、膨大な経典は、生命の無限に展開する哲理を示したものである、との視座を、まず提示しておきたいと思います。