第一章  法華経とは何か

"生命"の秘密を明かす唯一の経文

 

永遠のナゾを解決するための人生遍歴

わが国の神道が、超国家主義・全体主義に利用されて、ついには、無謀なる太平洋戦争にまで発展していったときに、私(戸田前会長)は恩師牧口常三郎先生、および親愛なる同志とともに、当時の宗教政策のはなはだ非なることを力説した。すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたのであるが、そのために、昭和十八年の夏、弾圧されて、爾来二ヵ年の拘置所生活を送ったのであった。

 冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日その日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる『生命の本質』に突きあたったのである。『生命とは何か』『この世だけの存在であるのか』『それとも永久につづくのか』これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

 不潔な拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと遊びにはい出してきた。私が二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは、一心に手足をもがいている。まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか、永久にこの世から消えうせたのであろうか。

 また、さくらの木がある。あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とは、ますます不可解のものである。

 その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみぬいたことを思い出してみる。そのとき、自分は娘に死なれて、こんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで、自分を悲しませたが)……もし親が死んだら(その親も死んで、私はひじょうに泣いたのであったが) ― と思ったときに、身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面したらどうか…と考えたら、目がくらくらするのであった。

 それいらい、キリスト教の信仰に入ったり、または阿弥陀教によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、心の奥底から納得するものは、何ひとつえられなかった。その悩みを、また独房のなかで繰り返したのである。元来が、科学・数学の研究に興味をもっていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。

 そこで、私は、ひたすらに『法華経』と日蓮大聖人の『御書』を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱えぬいていた。唱題の数が二百万遍になんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことに突きあたり、いまだかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、一人独房の中に立って、三世十方の仏、菩薩、いっさいの衆生に向かって、かく叫んだのである。

 遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。

 かかる体験から、私は、いま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである」

 

生命とはこの世だけの存在か

 これは、昭和二十四年、「大白蓮華」の創刊号に寄稿された、戸田前会長の「生命論」の書き出しの部分です。もちろん、当時十歳の私が、そのときこれを読んだわけではありません。ずっとあとになり、戸田先生の論文がまとめられ「論文集」として発刊されたとき、初めて、この「生命論」に接しました。

 私は、この論文を読み、全身に光のシャワーを浴びたような感動を覚えました。

 とくに、戸田先生が、かつて、お子さんを亡くし、お母さんを亡くし、奥さんを亡くし、生命の問題で悩み苦しんだこと、また、自分が死んだらと考えて苦しんだこと、その苦悩のすえに、キリスト教の信仰に入ったり、または阿弥陀教によったりして、思索をしぬいたこと、そして、ついに独房の中で唱題しぬきつつ、法華経を読みきったこと ― その人生の遍歴と、激闘ともいうべき生命の思索の葛藤に、衝撃のように心の嵐が起こったものです。

 同じような内容のことを、たしか昭和三十二年ごろの、総本山大石寺客殿の質問会で、戸田先生が話されました。質問は「この春、子どもが死にましたが、また親子の縁を結ぶことができるでしょうか」というものです。たしか、中年のご婦人だったと思います。戸田先生は、この人の心中を思いやったことでしょう。しかし、厳然と次のように答えておりました。

 「それはわかりません。私は、年二十三で『ヤスヨ』という子どもを亡くしました。女の子であります。一晩、私は死んだ子を抱いておりました。そのころ、まだ御本尊を拝みませんから、もう悲しくて、抱いておりました。そして別れて私は、いま五十八歳です。彼女がおれば、当時三歳でありましたから、そうとう立派な婦人となっていることと思いますけれども、今世で会ったといえるか、いえないか……。それは信心の感得の問題です。(中略)もう一つ付け加えておこう。

 私は、そのときぐらい世の中に悲しいことはなかったのです。目黒に事務所があったのですが、そこで、もし自分の妻が死んだら……と私は恐れました。その妻も死にました。

 もし母親が死んだらと思いました。それは私としても、母親が恋しいです。

 今度はもう一歩突っこんで、ぼく自身が死んだらどうしようと考えたら、私はからだがふるえてしまいました。それが牢に入って、少しばかりの経典を読ませてもらって『ああ、よくわかりました』と解決したのですが、死の問題は二十何年間かかりました。親子を亡くして泣きすごし、妻の死も自分の死もこわかった。これがようやく解決できたればこそ、戸田は創価学会の会長になったのであります。

 今世で会えるか会えないかは、それは私から言うわけにはいきません。あなた自身の感得の問題だと思うけれど、会えるというのもおかしいし、会えないというのもおかしいし、あなた自身の信心がつくるものだから、私の力のおよばぬところ、ご自分の力でおやりなさい」

 戸田先生の生命解決の人生遍歴は、じつに二十数年にわたったのです。そして、その解答を、ついに獄中における「法華経」で得たと、強い確信をもって語るのでした。

 それでは、いったい、戸田前会長が、身を削るような思いで、生命との対決をした「法華経」とは、いかなる経典なのでありましょうか。