78 思想の混乱
世界の文化人が迷乱している思想に二つある。この二つの迷乱が、いろいろな悲劇を人生にあたえている。一つは、知識が即智慧であるという考え方である。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない。つぎは、健康即生命との思いあやまりである。健康であれば、生命も長生きであるような、錯覚におちいっている。ただし、健康であることが、その人の日常生活をいかに楽しませ、いかに活動させるかを認めないのではない。それは、生活条件には必至なものではあるが、生命それ自体とは、また違ったものである。
このことがはっきりするならば、むりに大学課程をおさめさせたり、また丈夫にならなければならないと、自分の人生を悲観したりするようなことは起こるまい。
日本のことわざのなかに『論語読みの論語知らず』という言葉がある。これなぞは、知識と智慧と異なることを、りっぱに表現しているではないか。あの有名な曲亭馬琴の長男が、子どものときから、父親が一生けん命に論語をしこんで、りっぱな学者にしようとしたが、ついに単なる医者の株を買って、医者になったという話があるが、これなぞは、あきらかな事実ではないか。また、こんな話もある。ある人が長崎へ医学の修行にいって、行李参拝ほどの講義録をためて、揚々として帰国した。これさえあれば、りっぱな医者で通せると思ったのである。ところが、瀬戸内海で大波にあい、船が沈没して自分だけが助かった。かれの頭のなかにほ、医学の一物も残っていなかった。
と、こんな話は、昔の人の話のように思うが、今の大学生が、たんねんに先生の講義を筆記している。もちろん全部の学生とはいわない。その人が、その講義を全部自分の物にしているかというに、さはなくて、ただ試験に通りたいためである。このように、智慧と知識は根本的な相違がある。ただし、智慧の本道にはいるためには、知識の門を開いて、はいらなければならぬことは、いうまでもない。
仏法においても、随喜功徳品において、五波羅密を捨てよとはいうが、般若波羅密をば捨てよとは言っていない。智慧のない人間は、犬猫にも劣るのであるから、智慧を磨くということを、よろしく考うべきであろうと思う。
また、こんな言葉が、関西方面でいわれているという。『病気上手の死に下手』と。これは、また、健康と生命の関係を、如実にものがたっているではないか。健康なら長生きするという考え方は、大なる誤謬である。人間は何のために生まれてきたか、こういうことを人に聞くとき、満足に答える人はおらない。親孝行のために生まれてきたといっても、それは実際的ではなかろう。金もうけのために生まれてきたというならば、資本主義の変形である。
人間に生まれきたったわれわれの目的は、楽しむためであるということを、どこまでも忘れてはならない。その楽しむためには、健康というものが、そうとうの役割りを占めることを忘れてはならぬ。それとて度をすぎるならば、身をあやまるもとになる。
要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は得られないことを知らねばならぬ。ここまで吾人が論じたことは、単なる議論であって、これを実践に移し、いかにすべきかという問題は、わが創価学会の主張のごとく、日蓮正宗総本山の、一閻浮提総与の御本尊に、南無すること以外に、方法のないことを付記しておく。
(昭和三十三年四月一日)