信仰と組織
それ人生に、大小を問わず、何らかの集団ができた場合には、疎密にかかわらず、組織というものが自然にできる。経済活動にもせよ、軍隊活動にもせよ、その組織が、一つの生命のごとく見ゆるものである。
しからば、宗教活動においてはいかん。いうまでもなく組織が必要である。その発展と否とは、その根元に信仰の力のあることはいうまでもないが、その組織の疎密は、その宗教団体の発展に大きな影響力を持つ。あんな宗教が、あの邪宗がと思うようなものも、組織の力に助けられて、案外な発展をするものである。
わが創価学会は、その信仰の中心に、絶対唯一の御本尊を有し、その組織の根源に七百年にわたる本山の歴史を有して、これを現代化し、科学的にし、今日のりっぱな組織ができあがったのである。この力は、世の模範であるとともに、世の驚異である。この信仰と組織によって、宗祖日蓮大聖人のご遺命たる戒壇建立はなさるべきであり、なさねばならぬ。
さて、できあがった組織の発展力を、しみじみ見るのに、この組織を運営し、活発化するものは、信心ある人によることはいうまでもない。これを簡明にいうならば、組織は人によって作られ、人によって運営せられ、人によって有終の美を納めるものである。
わが創価学会が、かくも見事にできあがった姿をたとえるならば、海から上がった、生き生きとした大きな鯛である。目の黒さ、桜色のはだ、ピチピチとした勢い、あらゆる人の垂涎の的である。われわれ同志は、この姿に有頂天となって、ただ喜びにひたっていてはいけないような事情が、身近にさしせまっていることを知らねばならぬ。瀬戸内海で生まれ、玄界灘で仕上げ、ふたたび瀬戸内海にはいったこの大鯛の姿に、食い入るような目をさし入れた二つの怪物がある。
その一つは政治屋である。この鯛からあがる、こころよき匂いに、むくろまで食いしゃぶろうとして、かかってきている。恐るべきことではないか。われわれは、じっと、この魔に対して、身がまえをしなければならない。『いとしや、この身を、野犬のむれに食われてなるものか』と。これが野犬であるか、わが身を守る忠犬であるかの見わけは、なかなか、つかぬものだ。だいたいに虎狼の類と思えば決して間違いはない。同志諸君よ。野犬より、われらを守りたまえ。
つぎに恐るべき怪物の一つは、猫の一種である。やさしい猫なで声というものは、甘毛をもって人をさそい、このよき鯛を咬み食わんとするものである。それは何か。生命保険会社の外交陣である。わが学会の幹部級をさそって、かれら保険会社の外交部の幹部に仕立て、学会の組織を利用して、保険の募集をさせることである。この行為は、末端の信心を腐らせ、中間の信心を破り、幹部自身が信心と離れ、死んでいくようなことになるのである。恐るべき大魔ではないか。
ただし、学会の位置の有無にかかわらず、生命保険会社、火災保険会社の外交員として、学会の内外を問わず、職業として働くものを意味するものではないことを、強く強く付記しておく。ただ私の恐れるところのものは、地区部長さんがきたから、班長さんがきたから、一回の掛け金を掛け捨てにして、義理をはたすという風潮。地区部長の命令だから、班長の命令だから、保険を取らなければならぬという考え方。これが恐ろしいのである。
同志諸君よ、もし、これらのやからが、諸君らの家をたずねたならば、門前三尺以内に入れてはならぬ。大魔がきたか、学会の敵がきたかと、にらみつけて、追い返してしまいたまえ。
(昭和三十三年三月一日)