選挙と青年

 

 今年は、おそかれ早かれ、衆議院の改選が行なわれることは必至である。このときにあって、代議士を継続し、または、新しく立たんとする人々の周章狼狽(しゅうしょうろうばい)阿諛諂侫(あゆてんねい)、または権謀術数(けんぼうじゅっすう)、権力金力叩頭百拝(こうとうひゃっぱい)する姿は、不快のいたりである。むかしは、新聞に雑誌に、あるいは人伝えに、そんなこともあるものかと、他人事に知っておったにすぎないが、こんどは、なんの風の吹きまわしか、自分の目の前に、このことが展開されて、驚き入っている次第である。

 そもそも民主政治というものは、民衆の要望におされ、かつ、その要望にこたえて出馬した人々が、国衆の大勢を考え、民衆の要望をいれ、国家百年の大計を政治に具現すベきものである。しかるに日本の現勢をみるに、ただただ、おのれの権勢を張り、名誉欲を満たさんがために、一党一派のなかに閉じこもり、その党派のなかに、また党派を作って、しのぎを削っている。しかも、そのかれらの欲望達成の手段としては、金をばらまき、利権汚職をもって自己の地盤を固めて、不敗の位置に立たんとしているものである。

 この状態は、だれびとの罪ぞや。これは選挙母体から - 民衆の無気力と、政治に自覚なき点と、封建時代の強きに頼り大に服する卑屈の精神から、きたものではなかろうか。もし民衆が、一国政治の動向に、強く留意し、人材を求めてやまなければ、必ずそういうような人が現われ、かつまた、代議士志望の有象無象(うぞうむぞう)も、その風潮に同化して、毅然として国士の風が一国にみなぎるに相違ない。

 かかる民衆の無気力の根源は、また、いずこに胚胎(はいたい)したものであろうか。それは、青年の無気力と、懦弱(だじゃく)によるものである。青年がどうしたならば、この優秀な日本の民族をして、東洋指導の位置につけられるか。どうしたならば、混乱せる世界の政治情勢、経済情勢に平和を与えることができ、日本民衆も、自他ともに安定した世界を創造できるかと揣摩探査(しまたんさ)するときに、自然に中年層も、老年層も、これに追随して、りっぱな代議士を選出できるのである。

 思えば、今日の政治の堕落の根源は、その罪の大半が青年にあると論ずる外はない。青年は敏感である。もし、自己というものを確立し、自己の思想抱負を尊重し、天下大衆の幸福を切顧するならば、今日のような、腐敗した代議士にだまされるわけはない。ときおり、新聞で見ることであるが、社会党や自民党の公認の争いなど、聞くにたえない醜聞である。しかも、自民党の公認料百万円だとか、社会党の公認料三十万円とか、また、出馬代議士は五百万円かかるとか、いうすら恥ずべきことであるのに、聞いて恥じない民衆、聞いて驚かぬ青年、関心なき婦人、まだまだ、日本の政治の貧困の続くことは、遠い遠い先までであろう。

 創価学会が選挙運動にのり出したとき、これにはりっぱな目標があった。それは、いうまでもなく広宣流布である。ゆえに、選挙人は思想の統一がなされ、偉大な抱負に生き、未来に大きな希望をもっていたために、いままでのような醜悪なる選挙運動ではなく、正々堂々天下に恥ずるものはなかった。わが創価学会の選挙のあり方こそ、古今無類のものであり、天下に恥ずるものなしであった。

 この行為は、その真剣な気持ちのために、戸別訪問という国法にひっかかり、一、二の非難をまねいたが、それは、大木に節穴のあるがごときもので、意にかいするものではないと思う。しかし、こういっても、国法を犯す愚を二度とくりかえせというのではない。

 しかも、このことについて、おもしろい感じを受けたことがある。この非難のなかに閉じこもったのは、司直、役人であって、かれらの頭脳には、日本の醜悪なる選挙がしみこんでおり、正しい選挙の大道を、知らないことを物語っているものである。とまれ、青年は心して政治を監視せよ。

                            (昭和三十三年二月一日)