ジャーナリストを論ず

 

 このごろ、創価学会が、世間の問題になっている。それは、北梅道の炭労と闘争したときから、はじまっている。良いという者もあれば、悪いという者もいる。しかし、これに迷う信者がおっては、日蓮大聖人にあいすまぬから、ここに、この問題の根底について、一言いっておく

 第一、今の日本には、主義、主張がない。ゆえに、政治にせよ、経済にせよ、各評論家は、自己自身の立場において、評論をくわえているのである。

 第二、学会の大使命については、私自身がいう必要はなかろう。諸君らは、すでに十分、承知のはずである。

 第三、今のジャーナリストが、創価学会に評論をくわえている、一、二をあげて、判断の基準におこうと思う。

 たとえば、今、『創価学会』という本が出版されている。それは、東大の小口助教授の名において、佐木先生がお書きになったものと思うが、このなかに、二つの思想の流れがある。いうなれば、水と油のようなものであるが、何かのつながりで、つながったものと思う。

 小口先生の意見は、新興宗教という名において、あるいは、旧仏教界においても、仏教の存在というものは、寺に集まったり、あるいは、いずこにかに集まったりして、嫁や姑の話しあうところに、仏教が生きているのであると主張するのである。

 ところが、佐木先生になると、それを共産主義的な考え方から、このまま太らせてはあぶない、これが何かは知らぬが、共産主義に通ずるものもある。しかし、共産主義の味方であるか、敵であるかと、判断に苦しんで、わが創価学会を考えつつ書いておられる感が深い。

 そこへいくと、大宅壮一先生の考え方は、ぜんぜん、また別である。民族が一つの不満をもつ、その不満のハケ口が、それが創価学会であろうと、共産主義であろうと、そのハケ口へ向かって突進するだけである、という考え方から、学会を枇判しているのである。

 まだおもしろいのは、学会のことを書きさえすれば、本が売れるという考え方から、ほんとうの根本理念を知らずして、書きなぐるジャーナリストも多いことである。

 いずれにもせよ、私にとっては、おかしな考え方だと思うだけである。日本のほんとうの政治を知り、日本の東洋における位置を知った者ならば、あんなバカな批判は、できないであろうと思う。だが、それは、それぞれ個人的な批判であるから、私は、どうこうということは、いいたくはないが、静かに日本の行く手を、日本のあり方を考えたならば、あんな批判は、いえるわけはないと思うのである。しかし、かれらは、それをいわないと、原稿料にならないし、本も売れないと思うから、書いているのではなかろうか。

 今しばらく、わが学会の態度を論ずるならば、決して、今まであった新興宗教のような形はとっておらぬ。ただ、日本民族を、いかにして救おうかという、まじめな心境よりおこったもので、それ以外の何ものでもないのである。かれらは、組織がどうの、軍隊的であるのとかいっているが、それは、何の意味もないことである。創価学会の根本精神は、信心それ自体にある。それを理解しなくて、何の評論か、何の攻撃か。

 それは、ただ、かえって、戸田の物笑いの種になるだけであると、今の評論家たちが悟ったとき、広宣流布の日があるのだと、私は信ずるのである。

                (昭和三十二年十一月一日)