折伏(一)
折伏は、慈悲の行為である。こういってしまえば、耳新しい人は、論理が飛躍していると思うであろう。しかし、事実は、相手の人を救わんがための行為であることに間違いはない。その理由は、端的にいえば、折伏された人は、必ず幸福になるからである。これを、学理的に説明すれば、よくわかることではあるが、その学理といっても、仏教哲学であるがゆえに、今の民衆には理解が困難である。困難であるとしても、一応は説明しなければなるまい。
そもそも、仏教の哲理と仏教外の哲理との相違は、因果の理法のあるなしである。その因果といっても、仏教を通じての因果というものは、三世にわたる因果の理法である。今の人人は、三世にわたる生命観を、納得しようとはしない。ましてや、永遠に生きていると主張する、釈迦や大聖人の意見は、用いられようはずはない。
仏法律による三世の生命観は、前の世で人を殺したら、この世で多病にして、早死にというような報いがあると説いているのは、釈迦の学説であるが、これは、事実として認めざるをえないものがある。このことについては、釈迦が、般泥洹経に、次のごとく主張している。
『善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食麤疎財を求めて利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う乃至及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり』
この経文について、日蓮大聖人は、次のように、また注釈をくわえられている。
『過去世において、われ人を軽しめば、還って現世において、わが身人に軽易せられる。また、現世において、われ人を軽しめば、還って、未来において、わが身人に軽易せられる境涯を得る。過去世において形状端厳をそしれば、現世において醜陋の報いを得る。また、現世において形状端厳をそしれば、未来において醜陋の報いを得る。過去に人の衣服飲食をうばえば、必ず現世に餓鬼の報いを得、現世に人の衣服飲食をうばえば、必ず未来において餓鬼の境涯に生まれる。過去に持戒尊貴の人を笑えば、必ず現世に貧賤の家に生れる。また現世に持戒尊貴の人を笑えば、未来に必ず貧賤の家に生まれる。過去世に正法の家をそしれば、現世には邪見の家に生まれる。また、現世に正法の家をそしれば、未来に必ず邪見の家に生まれる。過去世に善戒を笑えぱ、現世には国土の民となって王難に遇う。また、現世に善戒を笑えば、未来に国土の民となって王難に遇う』また、『是れは常の因果の定まれる法なり』とおおせられている。
『是れは常の因果の定まれる法なり』とは、生命の実相は、かくのごときものであると、断定せられたお言葉である。釈迦も、大聖人も、生命の実相はこうであると、説きはなしてはおらぬ。もし、この前世において、このような行為があって、現世において、このような悪い報いをうけなければならないとしても、それがわかっただけでは、何にもならないではないか。これを、どう解決するか、解決の法があるか、ないか。ここが、われわれ民衆にとって、問題点なのである。釈迦がこれにたいして、同じ般泥洹経なかで、『この苦難を軽く受くるは護法の功徳力なり」と解決している。
しからば、大聖人はいかなる解決法をとられたか。大聖人の解決法は、簡潔にして根本的である。それは、観心本尊抄に、次のごとく運命の転換にたいして、強く強く主張せられている。次号において、重ねて説明するであろう。
(昭和三十二年九月一日)