われわれが、大御本尊を受持するにあたって、もっとも、ありがたいお言葉は、観心本尊抄(御書全集二四六㌻)における次のお言秦ではなかろうか。
『私に会通を加えば本文を黷すが如し、爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』
すなわち、妙法蓮華経の五字とは三大秘法の御本尊である。また釈尊の因行果徳の二法という、その釈尊とは、権迹本の釈尊の因行果徳の二法である。何らの功もなく、何らの功徳も積まず、何らの修行もなくして、ただ、大御本尊受持の功徳によって、仏の境涯をえられるのである。
されば、受持とは何ぞや。これは二応三応にも考えられることではあるが、三大秘法の義によって、身口意三業の義によって、拝すべきではなかろうか。三大秘法の大御本尊を信じ、ただ、ひたぶるに南無妙法蓮華経と唱えることこそ、その根本義であることはいうまでもない。これだけで功徳のあらわれることは論をまたぬことであるが、今少しこれを詳論してみるならば、大御本尊様を受けて部屋にかざっておくだけでは、ただ一応の受持になる。
三大秘法の題目を分かって二つとして、一つは信、一つは行となる。行の題目となれば、自行化他にわたらなければならない。これが末法の題目である。ただかざっておくだけでは、信じているとはいえ、それはいまだ真の受持にはならない。大御本尊に向かって、御本山のしきたり通りの化儀によって、題目を口唱する、そのときこそ、口に心に身に御本尊を受持したことになるのである。すなわち、その境涯こそ、法華初心成仏抄(御書全集五五七㌻)の、『凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり』
すなわち、御本尊に向かって題目を唱えている人それ自身が、本尊の体となることこれ明らかである。このゆえに、この姿こそ真の受持といわれるのではなかろうか。
また、他に向かって、この御本尊の偉大な力を讃嘆するは、遣使還合の位についた者である。御本尊の使いであること、これまた明らかである。さればこそ、真に身に御本尊を受持したことになり、権迹本の仏の・因行果徳の二法を譲られた者といいうるのである。三大秘法の義に照らし、御本尊即日蓮大聖人であり、日蓮大聖人即御本尊であると信ずるところに、御本尊を讃嘆する義があるので、この讃嘆こそ身口意三業の讃嘆というべきではなかろうか。
また戒壇に義あり事あり、いまだ国立戒壇ならず、この国立戒壇建立こそ遣使還合の役目であり、地涌の菩薩のなすベきことと自覚するならば、化他にわたる題目こそ、唯一無二の大事なことになるのではなかろうか。そこに、折伏の意義があり、学会の使命があるのである。
(昭和三十二年六月一日)