戸田城聖先生の巻頭言集 王仏冥合論 五、実践活動の先例

 

①  北条時宗への御状(御書全集一六九㌻)

 

 謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光妙寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。

 夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり、然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、仁王経に云く『一切の聖人去る時七難必ず起る』と、彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し、桀紂は龍比を失って国位を喪ぼす、今日本国既に蒙古国に奪われんとす豈歎かざらんや豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮は法華経の御使なり経に云く『則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり、此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有って御報に予かる可く候、所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。

 三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳随・桓武是れなり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。

    文永五年(戊辰)十月十一日               日 蓮 花 押

   謹上 宿屋入道殿

 

 

②  宿屋左衛門光則への御状(御書全集一七○㌻)

 

 先年勘えたるの書安国論に普合せるに就て言上せしめ候い畢んぬ、抑正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来すと、之を以て之を按ずるに日蓮は聖人の一分に当り候か、然りと雖も未だ御尋ねに予らず候の間重ねて諫状を捧ぐ、希くば御帰依の寺僧を停止せられ宜しく法華経に帰せしむべし、若し然らずんば後悔何ぞ追わん、此の趣を以て十一所に申せしめ候なり定めて御評儀有る可く候か、偏に貴殿を仰ぎ奉る早く日蓮が本望を遂げしめ給え、十一箇所と申すは平の左衛門尉殿に申せしむる所なり委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候、御気色を以て御披露庶幾せしむる所に候、恐恐謹言。

   文永五年(戊辰)十月十一日               日 蓮 花 押

  謹上 宿屋入道殿

 

 

③平左衛門尉頼綱への御状(御書全集一七一㌻)

 

 蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候い畢んぬ、抑も先年日蓮立正安国論に之を勘えたるが如く少しも違わず普合せしむ、然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、併ながら貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし。

 夫れ以れば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり之を信受するに於ては何ぞ七難来り三災興らんや、剰え此の事を申す日蓮をば流罪せらる争でか日月星宿罰を加えざらんや、聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し秀郷は将門を挫いて名を後代に留む、然らば法華経の強敵為る御帰依の寺僧を退治して宜く善神の擁護を蒙るべき者なり、御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや、此の趣を以て方方へ愚状を進らす、所謂鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光妙寺・弥源太殿並びに此の状合せ十一箇所なり、各各御評議有って速かに御報に預るべく候、若し爾らば卞和が璞磨いて玉と成り法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ、全く身の為に之を申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむるの処なり件の如し、恐恐謹言。         

   文永五年(戊辰)十月十一日         日 蓮 花 押

 

  平左衛門尉殿

 

 

④  兆条弥源太への御状(御書全集一七二㌻)

 

 去ぬる月御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ、抑蒙古国の牒状到来の事・上一人より下万民に至るまで驚動極り無し然りと雖も何の故なること人未だ之を知らず、日蓮兼ねて存知せしむるの間既に一論を造って之を進覧せり徴先達って顕れ則ち災必ず後に来る、去ぬる正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の刻の大地震是併ながら此の瑞に非ずや、法華経に云く如是相と天台大師云く『蜘蛛下りて喜事来り鳱鵲鳴いて行人来る』と、易に云く吉凶動に於て生ずと此等の本文豈替るべけんや、所詮諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきの由勘文を捧げ候、日本亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起れり諸宗を召し合せ諸経勝劣を分別せしめ給え、殊に貴殿は相模の守殿の同姓なり根本滅するに於ては枝葉豈栄えんや、早く蒙古国を調伏し国土を安穏ならしめ給え、法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり、天照太神・八幡大菩薩等・此の国を放ち給う故・大蒙古国より牒状来るか、自今已後各各生取と成り他国の奴と成る可し、此の趣き方方へ之れを驚かし愚状を進ぜしめ候なり、恐恐謹言。

   文永五年(戊辰)十月十一日      日 蓮 花 押

 

  謹上 弥源太入道殿

 

⑤  建長寺道隆への御状(御書全集一七三㌻)

 

 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深・を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛って、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり、然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと日蓮が勘えらる所に少しも違わず普合せしむ、諸寺諸山の祈禱威力滅する故か将又悪法の故なるか鎌倉中の上下万人・道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む、其の外寿福寺・多宝寺・浄光妙寺・長楽寺・大仏殿の長老等は『我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う』の増上慢の大悪人なり、何ぞ蒙古国の大兵を調伏せしむ可けんや、剰え日本国中の上下万人悉く生捕りと成る可く今世には国を亡し後世には必ず無間に墮せん、日蓮が申す事を御用い無くんば後悔之れ有る可し此の趣鎌倉殿・宿屋入道殿・平の左衛門の尉殿等へ之を進状せしめ候・、一処に寄り集りて御評議有る可く候、敢て日蓮が私曲の義に非ず只経論の文に任す処なり、具には紙面に載せ難し併ながら対決の時を期す、書は言を尽さず、恐恐謹言。

   文永五年(戊辰)十月十一日                日 蓮 花 押

 

  進上 建長寺道隆聖人侍者御中

 

 

⑥極楽寺良観への御状(御書全集一七四㌻)

 

 西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲弄の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賤する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と飜ず争か日蓮 を鑱奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僭聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定せり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候、所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り『於一切衆生中亦為第一』とは是れなり、文言多端理を尽す能わず併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。

   文永五年(戊辰)十月十一日               日 蓮 花 押

  謹上 極楽寺長老良観聖人御所

 

 

⑦ 大仏殿別当への御状(御書全集一七四㌻)

 

 去る正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来し候い畢んぬ、其の状に云く大豪古国皇帝・日本国王に書を上る大道の行わるる其の義邈たり信を構え睦を修す其の理何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅正月日と、右此の状の如くんぱ返牒に依って日本国を襲う可きの由分明なり、日蓮兼ねて勘え申せし立正安国論に少しも相違せず急かに退治を加え給え、然れば日蓮を放て之を叶う可からず、早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん委しく之を記すこと能わず、此の趣方々へ申せしめ候、一処に聚集して御調伏有る可く候か。

   文永五年十月十一日                 日 蓮 花 押

  謹上 大仏殿別当御房

 

 

⑧寿幅寺への御状(御書全集一七五㌻)

 

 風聞の如くんば蒙古国の簡牒・去る正月十八日慥かに到来候い畢んぬ、然れば先年日蓮が勘えし書の立正安国論の如く普合せしむ、恐くは日蓮は未萌を知る者なるか、之を以て之を按ずるに念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に充満して上下の師と為るの故に此の如き他国侵逼の難起れるなり、法華不信の失に依って皆一同に後生は無間地獄に堕す可し早く邪見を翻し達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し、然る間方方へ披露せしめ候の処なり、早早一処に集りて御評儀有る可く候、委くは対決の時を期す、恐恐謹言。

   文永五年十月十一日                日 蓮 花 押

  謹上 寿福寺侍司御中

 

 

⑨浄光明寺への御状(御書全集一七五㌻)

 

 大蒙古国の皇帝・日本国を奪う可きの由・牒状を渡す、此の事先年立正安国論に勘え申せし如く少しも相違せしめず内内日本第一の観賞に行わる可きかと存ぜしめ候の処剰え御称歎に預らず候、是れ併ながら鎌倉中著麤の類・律宗・禅宗等が『向国王大臣誹誘説我悪』の故なり、早く二百五十戒を抛って日蓮に帰して成仏を帰す可し、若し然らずんば堕在無間の根源ならん、此の趣き方方へ披露せしめ候い畢んぬ、早く一処に集りて対決を遂げしめ給え日蓮・庶幾せしむる処なり、敢て諸宗を蔑如するに非ざるのみ、法華の大王戒に対して小乗蟁蝱戒豈相対に及ばんや、笑う可し笑う可し。

   文永五年十月十一日                 日 蓮 花 押

  謹上 浄光明寺侍者御中

 

 

⑩多宝寺への御状(御書全集一七六㌻)

 

 日蓮・故最明寺殿に奉りたるの書・立正安国論御披見候か未萠を知って之を勘え申す処なり、既に去る正月蒙古国の簡牒到来す何ぞ驚かざらんや此の事不審千万なり縦い日蓮は悪しと雖も勘うる所の相当るに於ては何ぞ用いざらんや、早く一所に集りて御評議有る可し、若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無限大城に堕す可し、此の旨方方へ之を申せしめしなり敢て日蓮が私曲に非ず委しく御報に預る可く候、言は心を尽さず書は言を尽さず併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。

   文永五年十月十一日                  日 蓮 花 押

  謹上 多宝寺侍司御中

 

 

⑪長楽寺への御状(御書全集一七六㌻)

 

 蒙古国・調伏の事に就いて方方へ披露せしめ候い畢んぬ、既に日蓮・立正安国論に勘えたるが如く普合せしむ、早く邪法邪教を捨て実法実教に帰す可し、若し御用い無くんば今生には国を亡し身を失い後生には必ず那落に堕す可し、速かに一処に集りて談合を遂げ評議せしめ給え日蓮庶幾せしむる所なり、御報に依って其の旨を存ず可く候の処なり敢て諸宗を蔑如するに非ず但此の国の安泰を存する計りなり、恐恐謹言

   文永五年十月十一日               日 蓮 花 押

  謹上 長楽寺侍司御中

 

 

弟子檀那中への御状(御書全集一七七㌻」

 大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん、少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺(已上十一箇所)仍って十一通の状を書して諫訴せしめ候い畢んぬ、定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え、恐恐謹言。

   文永五年(戊辰)十月十一日               日 蓮 花 押

  日蓮弟子檀那中

 

 特に吾人がおもしろいと思うことは、大聖人が十一通のお手紙を出された境地である。これは、文永五年に各所に対する諫言の書である。自らが誤れる仏法と考えよ、というご命令書と同じである。特に感ずるものは、最後の弟子檀那に与えた御書である。

『大蒙古国の簡牒(かんちょう)到来(とうらい)に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候』と。このご精神は、いま日本国がアメリカと手を結んでよいか、ソ連と手を結んでよいかとの問題について考慮する、日本中の人々の考え方と同じではなかろうか。日本が国家始まっていらいの国難にあって、こうすれば日本を救えるという大聖人のご精神を、日本民族全体がわかろうとしないことを、一つの憤りのようなお気持ちで述べられたおことばではなかろうか。

『定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん』と。いまの吾人の弟子に、この覚悟あるものは全くなきことを悲しむものである。みなご利益のあることを願い、信じてはいても、生命をかけても仏法を求め信ずるもののないことは当然であろう。

『少しも之を驚くこと(なか)れ方方への強言申すに及ばず(これ)(しかし)ながら而強毒之(にごうどくし)の故なり』とは、大聖人が、最も愛する人々へ、普段教えてあることを銘記せよとのおことばである。なぜかならば、而強毒之とは、倒れて、なおかつ、ご利益のあることを確信するゆえである。もし大聖人が、毒を受けて、そのまま幸福にはならない、との疑いがあるならば、これほどの強いおことばは、ないはずである。

『日蓮庶幾(しょき)せしむる所に候』。これというのも、大聖人は、このとき、ご災難は受けていないはずである。しかるに、大聖人が、この御書をおしたためのとき、すでに、災難を受けることを覚悟のうえである。それを愛する弟子壇那に、おのれが確信を伝えようとした愛情ではなろうか。しかし、大聖人の弟子中には、これを恨むものが少なくなかったであろうことを、推察することができる。

『各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ」と。たとえ、おおせあるといえども、普通の人として、そういうことはできるものではない。特に現代においては、もっとも恐るべき問題である。かくも言い放つ大聖人の大きな確信は、つぎのおことばに、はっきりと、うかがわれる。

今度(このたび)生死(しょうじ)(ばく)を切って仏果を()げしめ給え』とあるは、南無妙法蓮華経と唱え切って死ぬものは、永遠の幸福が必ずあると、大聖人が信ずるゆえにである。さなくんば、なんで、これほどの強いおことばを、お用いになろうか。

 悲しいかな、日本に仏教哲理がなくなって、三世永遠の哲理を知るものなく、このおことばの大慈悲を感ずるものもなく、信ずるものもないことを、吾人は悲しむものである。

『定めて子細有る可し』の『子細有る可し』のおことばは、深きお考えのうえで出たおことばであろう。もし吾人らが、そのころの弟子であるならば、あまりにも強いおことばであり、強いご行動であると思わざるをえない。いま、われら、()(れん)(にゃ)にあるといえども、そのときの弟子壇那のことを思えば、乱暴にすぎるように思われる。そのころの弟子壇那にして、このおことばを、もし信ずるものがあれば、案に強信な人と拝せざるをえない。顧わくば、この強き一人として生きんことを。

                           (昭和三十二年二月一日)