戸田城聖先生の巻頭言集 56 広宣流布と文化活動()

 

 以上、国立戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし国立戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。

 一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するとするならば、現今の皇太神宮や、明治神官のごとき扱いを受けるであろう。しからば、『かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし』(御書全集九一九㌻)とのご聖言のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、国立戒壇建立の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ、知識階級に深刻なる理解を持たせねばならぬ。

 敗戦日本のみじめさ、重なる生活苦、米ソ戦の脅威等による、いまの全国民の苦難はいうまでもないことであるが、これ本尊流布の時がきていることを、十分に物語っているのである。されば、吾人の考うるところによれば、いま時に応じて、本尊流布は滔々として遂行されるものと信ずる。しかし、その間、大聖人の大難に比すべくもなき小難とはいえ、難は必ずありうるものと、覚悟しなければならない。

 最後の、国立戒壇の建立、すなわち三大秘法の本門の戒壇の建立は、本尊流布の遂行とともに、当然完成されることは、いうまでもないと信ずる。また、このことは、至難事中の至難事であることも、いうまでもない。そのゆえは、日本民衆に、信ずると信じないとにかかわらず、深刻なる理解を持たせねばならないからである。深刻なる理解は、言うはやすく、行なうは難いのである。本尊流布中には、いまみられるごとく、邪宗の輩の卑劣な反対があるが、今後それに倍増する、新たな反撃があることが、十分考えられる。したがって、理解をさせるなどという段階までいけるのは、最良の場合であると思われる。そこで、日本民衆に理解をさせるための、文化活動の必要が生じてくる。

 現在の日本人には、宗教上の知識がほとんどないといっても過言ではない。このことは、一応は大乗仏教国として、たしかに悲しむべき現象ではある。しかし、再応は、われら広宣流布に挺身する者には、まことに好都合のことである。なんとなれば、かれらは白紙か、または、迷信の者であるから、よく考うるならば、かれらに、真の理解を得させるのには、好都合であるかもしれぬからである。

 しからば、文化活動の内容はいかにというに、まず政界に、国立戒壇建立の必要性を、十分に理解させることである。しかして、この理解の成就は、一般大衆の支持からくることはもちろんである。一般大衆の支持をうけるためには、言論界の理解を根幹とすべきである。このことは、非常にめんどうである。なぜかならば、現代の言論界の人々は、宗教を理解せず、信仰どころか、まったくの無信仰といってもよかろう。しかし、もし広大無辺なるご仏智が本門戒壇の建立を、いまに許したもうならば、明治の高山樗牛(たかやまちょぎゅう)のごとき人材が、現代に必ず出現するであろうことを、信ずるものである。実に、信なき言論は煙のごときものであるから、強信なる言論人を、多大に必要とするのである。これまた、至難時中の至難事である。

 もちろん、言論界と(あい)提携(ていけい)して、新聞雑誌等の協力も得なければならぬ。また、映画もその一役を買うべきであろう。ついで、経済人にも、国立戒壇を建立するこの信仰が、かれらに偉大なる利益を与えることを、理解させなければならぬ。資本家も、労働階級も、企業家も、これを理解し、これを信仰するときに、如説修行抄(御書全集五〇二㌻)の『天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法(ひと)繁昌(はんじょう)せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨(つちくれ)(くだ)かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ」云云の世の中が、現出すると信ずるものである。

                            (昭和三十一年五月一日)