戸田城聖先生の巻頭言集 48 『私の悩み』

 

 人生とは、楽しむ事である。 しかし、人として、悩みが無いと言いえないであろう

私にも、大きな悩みがある。この悩みの為に、時には怒り、時には悲しむのである。

 この私の悩みは、信心を強く立つ者が少ない事である。また、初信の者が、大御本尊のご威徳を信ぜずに、退転する事である。これらの者は、何と浅はかな者であろうか。清水の如く、こんこんと湧き出る功徳の味を、味わいきれずに、死んでしまうのである。何と、可哀想な事ではないか。私の胸の中は、キリで揉み込まれる思いで一杯である。

 

 観心本尊抄(御書全集246頁)に云く、

 

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』云々。

 

 この様に、日蓮大聖人は、御本尊を受持しなさい、御本尊を受持すれば、お前らが過去世に、仏になる業因を作っていなくても、これを作ったと同じ事にしてやる、そして、直ちに仏になれる、と仰っているのである。仏になるほどの功徳があるならば、病気が治る事や、金持ちになる事などは、小さな事件であるではないか。これを信ずる事ができない者の多い事は、実に私の悩みである。

 

 また、観心本尊抄(御書全集246頁)に云く、

 

四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云」』と、

 

 無上の宝聚とは、大御本尊の事であらせられる。即ち、大御本尊様が、無上の宝の(あつま)りなのである。私共が、この御本尊を受持する事によって、私共自身の命に、無上の宝聚が満ち満ちている事になる。今もし、この御本尊を捨てるならば、無上の宝聚を捨てる事になる。悲しむべき限りではないか。また無上の宝聚が命の中に満ち満ちているとしても、もし、我らの信力行力が足りなければ、これを、我らの生活の中に浮き出す事ができない。これを知らず、信力行力弱くして功徳を受けられず、また、これを信ぜずして退転して、無上宝聚を捨て去って行くとは、実に嘆かわしく、(はかな)い事である。

 

 また、重ねて観心本尊抄(御書全集246頁)の次下には、

 

妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや』云々と仰せあって、重ねて大聖人様は、御本尊を受持する者は、御本尊と一体であると、仰せられている事に、よくよく注意すべきである。

 

 また、病ある者は、次の御抄に心を留むべきである

 

 可延定業書(御書全集985頁)に云く

 

『されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身として病を身にうけさせ給う心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし』

 

 この様に、大御本尊に祈れば、病気が治るだけでなく、命まで延びると仰せになっているではないか。こんな有難い御本尊を持ちながら、信ずる事が足りなかったり、退転したりするとは、何というバカ者ばかりの多い事であろうか。少しばかり、人生の苦悩の波にぶつかったからといって、御本尊を信じないとは、浅はかな限りである。

 

 されば、開目抄(御書全集232頁)に

 

善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』と、仰せられている。

 

 ああ、私のこの悩みが、いつに解消される事であろう。願わくば、一日も早からん事を祈るのみ。

 

(昭和三十年九月一日)