戸田城聖先生の巻頭言集 45 『受持即観心を論ず』
『受持即観心』という事は、仏法上の重大なる存在として、観心本尊抄において、深く説かれている。
元々、観心とは、己心を観じて十法界を見る、という事で、これを天台流に読む時は、己心の十法界を観見する事である。即ち、自分が自分の心の状態を、今は苦しい、今は喜んでいる、今は平和であるという様に、客観的に観察して、そこに、一つの悟りを開くのであって、天台時代のごく上流の人の修行の仕方である。天台大師の兄が病気になった時に、『頭に熟蘇味を載せたとする。これが、段々と、足まで満ちて行き、やがて、室中に満ち満ちると観ぜよ』との大師の言葉によって、その通り観念観法して、病を治したという様な事は、この例である。
現代においても、我々の人間界に十界があるとか、宇宙観が己心に住するとかいう様な、理論的問題を説いていると考えているが、それは、観念論者の意見であって、天台の偉大な哲学に圧倒された考え方である。現在、末法の人々にあっては、前記の如き天台の観念観法によって、幸福境涯を受得する事は、到底成し得ない。
文底よりこれを読めば、己心を観ずるというのは、御本尊を信ずる事であり、十法界を見るというのは、妙法を唱える事である。その故は、御本尊を信じて妙法を唱える時には、御本尊の十法界が、即ち己心の十法界となるからである。即ち、信じ、受持する事によって、御本尊の因行果徳を譲り与えられて、歓喜の境涯に住する事ができるのである。ここに末法御本仏としての、日蓮大聖人ご出現の深意があるのである。
吾人をもって会通を加えしむれば『受持即観心』の観心とは、絶対なりと信ずる事である。例えば、ここに四つか五つの子供がいる。この子供は、母親を絶対と信じている故に、母親の言う事、為す事が、その子供にとっては、絶対の信頼である。母親を受持して、母親の為すままに行う。これ即ち、受持即観心である。母親が盗みをすれば、その子供も盗む様になり、しかも、その子は、決して悪い事をしているとは思っていない。これは、母親即観心であるからである。
また、詐欺の夫を持つ妻は、夫を絶対と信ずる故に、己もまた、同じく詐欺の手伝いをする。夫を信ずるが故に、妻は、夫が悪事をしているとは思わない。これは、夫を受持して信ずる状態である。これ、受持即観心ではないか。もし、夫が詐欺である事を疑い、憎むならば、夫の考え方に信頼がおけず、夫とは別の心構えを持つから、受持即観心とは成り得ないのである。
また、主人が金を儲けようとして、色々な方法を執るうちに、人を騙して金を儲けようとした時、その支配人が、これを不正であると考えたならば、そのまま主人の言う事を聞かないであろう。そうなると、主人を受持しない事になるから、観心とは言いえない。また、ある師匠がいて、自分は偉い先生であるとホラを吹いてみても、聞く方の弟子が、それを真実に信じられないならば、弟子の観心は成り立たないのである。
以上述べた様に『受持即観心』とは、対境を絶対であると信ずる事であるから、信ずる対境によって、その受得する悟りは区々である。前例の如く、盗みをする母親を対境として信ずれば、子供の悟りは『盗み』であり、詐欺の妻は、詐欺していく事それ自体が、人生観であり宇宙観となるのである。故に『受持即観心』していくものは、何を信じたら、本当の幸福を得られるかという事が、大事な問題になってくる。
※法身般若解脱の三徳
仏にそなわる3種の徳相のこと。①法身とは仏が証得した真理、②般若とは真理を覚る智慧、③解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。
本因妙の仏法においては、九界の衆生、即ち仏の三徳を、家来として、また弟子として信ずる衆生の心を大事にするのであるから、子である、弟子であると叫号して威張れる様な、絶対権威ある仏法でなければならない。されば、日寛上人は観心本尊抄文段において、能開所開を論じて、文底下種の本地難思境智の妙法たる大御本尊こそ、釈尊の因行果徳の方法を悉く具足する、大権威ある仏法であると結論遊ばされているのである。
※能開所開(のうかいしょかい)
「能開」とは「能く開会(かいえ)する」ということで、諸法(しょほう)を開会する法華経の妙義をいい、「所開」とは「開会される」ということ、開会される諸法の立場をいいます。)
観心本尊抄(御書全集245頁)に、
『此の方等経(大御本尊)は是れ諸仏の眼なり(師の徳)諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等(妙法五字)より生ず(親の徳)是れ大法印にして(主の徳)涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり』等云云と、御本尊こそ、主師親の三徳であり、三世諸仏を出生する種である事を、お示し遊ばされ、更に、同じく観心本尊抄(御書全集246頁)に云く、『我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』と、仰せ遊ばされている。
この御文中に、四種の力用を明かされているのであって、我等受持というのは、即ち信力行力である。この五字とは法力であり、自然に譲り与え給うとの仰せは仏力である。 故に、末法の我等が、御本尊を唯一絶対なりと信心、口唱する事によって、妙法の法力仏力、厳然と現れて、最高の幸福境涯を受得する事ができるのである。
※第二十六世日寛上人は『同文段』に、
「この文の中に四種の力用を明かすなり。謂く、『我等受持』とは即ちこれ信力行力なり。『此の五字』とは即ちこれ法力なり。『自然に譲り与う』は豈仏力に非ずや」(日寛上人文段集 486頁)
と、四種の力用を御指南されています。つまり、この本尊のほかに仏になる道はなしと、ひたすら御本尊を信じ奉ることが信力であり、余事をまじえずただ題目を唱えることが行力です。そして御本尊の功徳が広大深遠であるのが法力であり、御本仏が衆生を救うために御本尊を顕わされ、それによって救済する力用を仏力といわれているのです。
(昭和三十年六月一日)