戸田城聖先生の巻頭言集 44 信心の在り方について
御本尊と、われら衆生との間は、四法によって関係づけられている。四法とは、信力・行力・法力・仏力である。信力行力は、われら衆生の二法で、法力仏力は、御本尊の功徳力の二法である。
さて、ここに考えなければならないことは、信力行力と、法力仏力とが、どう関係し合い、どういう結果が現われるかということである。三世諸仏総勘文抄(御書全集五六九㌻)にいわく『所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり乃至実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず』と。
己心と仏心と一なりと観ずるとは、仏心も妙法五字の本尊であり、己心も妙法五字の本尊である。すなわち、われらの生命それ自体が、妙法の五字であるということである。されば、仏心、己心異なるといえども、妙法五字の本尊は異ならない。しこうして、異ならないということを、どうして『観』ずることができるかというに、それは、われら衆生の信力行力にあるのである。されば、初信の行者が、なにもわからないで、ただ一心に御本尊を信じて、信力行力を励むならば、自然に、己心と仏心とが冥合する状態になるのである。 ここに、大御本尊の法力仏力が、その衆生の生命のなかに厳然と現われ、功徳を成ずるのである。
よく、初信のものが、まだまだ功徳が現われない、と嘆(たん)ずるのを聞くことがある。こういう人は、功徳のみにとらわれていて、おのれの信力行力をかえりみない人に多い。『たたけよ、さらば開かれん』ということばがある。信力・行力・法力・仏力は、このことばに当たる。一の信力・一の行力は、一の法力・一の仏力となって現われる。百の信力行力は、百の法力仏力となって現われる。万の信力行力は、万の法力仏力となって現われる。この理をよくよく心に刻んで、純真無二の信心をはげまなければならない。
ただ、注意しなくてはならぬことは、釈迦仏法の利益と、末法下種仏法の利益に相違のあることである。釈迦仏法の利益は顕益といい、末法下種仏法の利益は冥益というのである。
顕益というのは、奇跡的に、直ちに現われることで、冥益とは、自然に、いつとはなしに利益が現われることである。ただし、顕益たる釈迦仏法中に、冥益がないというのではない。
ただ、顕益が表であるだけである。また、冥益の末法下種仏法に、顕益がないと断ずるのではない。顕益もあるが、冥益を表とするのである。
冥益とは、草や、木が育つ姿と同じご利益である。土地に下された種から芽を出して、自然自然に大きくなるのと同じことである。妙法蓮華経の種は、大大木になる種であるから、これが芽を出してから大木になるまでは、相当の年月のかかるものと思わなければならぬ。
きのうの大きさと、きょうの大きさとでは、目立ったものは見ることはできないが、一年、三年、十年、十五年と年月のたつにつれて、その大きくなったことを感ずるように、妙法五字の利益も、それと同じと思うべきである。これを冥益の姿というのである。
もし、信力に、一点でも不信の虫がつくならば、行力の効なく、その大木はくさって倒れてしまう。どこまでも戒心しなくてはならないのは、疑うということである。少しばかりの疑いでも、大きな傷になることを考えなければならない。御本尊は、清浄なる法水であるから、その大敵たる汚水をいとうものである。もし、信力に、この汚水がまじったならば、己心の妙法五字の本尊は、これがために汚れて、清浄なる妙法五字の大御本尊と冥合できなくなる。ゆえに法力・仏力は絶対に現われないことになる。
このゆえに、大信力を起こして、大御本尊を信じなければならぬ。絶対に功徳あるものとの信念を、少しなりともゆるがせにしてはならない。露ばかりの疑いをも、決して許してはならない。また、大信力があったとしても、これを行ずる力なくては、仏力・法力は現前しない。このゆえに、大行力を行じなくてはならぬ。大信力あって、唱題に、折伏に、大行力を行ずるならば、仏力・法力の現われぬということは絶対にありえない。
(昭和三十年五月一日)