戸田城聖先生の巻頭言集 41『書を読むの心構え』
『眼光紙背に徹す』という言葉があるが、古人も、読書の心構えにおいては、種々に警告を発している。 相当の哲人、文士、評論家等の、世の指導階級が著された書物を読むに当たって、その人が何を言わんとし、何を説かんとしているかを、正確に掴む事が大事である。もし、正確に掴み得たとすれば、殆ど、その人に近きものと言いうるであろう。 それでこそ、読書の甲斐があったというものである。
しかるに、中々、その人々の所説を知る事は、容易なことではない。されば、一人の人の思想を捉えんとするには、精読が、肝心である。乱読する時においては、上滑りの学問はできても、深い思想点に達する事はできない。ある一人の人の思想に達する事ができれば、それから徐々に、他の人々の思想の表現を読んでも、それを掴む事ができる様になる。 その時には、必ず、同等性と差別性に気を付けなければならない。この考え方で読書するならば、その人々の思想を正しく認識する事ができるであろう。
ただ慎むべきは、一人の人の思想に留まってしまった時、それ以上のものを、受け入れられない感情が生ずる事が多い。これは、最も恐るべき事で、特に、青年の注意すべき事である。
また、相当の哲学者、文士、評論家等の人々が、その思想を表現するに当たっては、長い間の研鑽がなされている事に、留意しなければならない。だから、自分の学力が、甚だかけ離れている場合には、その意図の何分の一、或いは何十分の一をも掴む事ができない。 この点に留意して、謙遜なる気持ちを持って読書しなければならぬ。一度読んだぐらいで、もう、その人の所説が、悉く、我が物になったとは、言い切れないのである。とは言え、また、それを読まねば、その人の領域まで行く事ができない。山へ登るのに、一歩一歩と登り、頂上に至って全体を見下ろすが如く、読書も、その立場を辿るのである。
前に、思想の比較研究という事を述べたが、低い思想の人から、高い思想の人へと比較研究して学問するのが、当然の様に思っている者が多いが、それは大きな誤りであり、また、最も時間の不経済な事である。しからば、如何になすべきか。吾人は、これに答えて斯く言う、『最も高き思想の者に、最初から深く入れ』と。ここに指導者の必要があるのである。如何なる思想の人が最も高きかを、教えうる人が必要となってくるのである。
政治、経済、文学等々、それらは、未だ比較研究の時代であるから、何れを最高とも言い得ない。この分野では、相当の比較研究の後に、自己が判定を与えねばならぬと思う。
科学にしても、大学時代の勉強なら順序を追って研究せねばならぬが、それ以上になったならば、やはり同じ立場であろうと信ずる。
これらの学問は、何れも、帰納法の学問の領域を出ないのであるから、前に言った通りであるが、宗教の問題となれば、演繹法の生命哲学であるから、絶対に最高の哲理を最も初めに研究しなくてはならない。しかも、この最高の宗教哲理は、演繹であるが故に、帰納法的学問はこれを目標としている事を考える時、尚更当然の様に思う。
吾人が常に叫んでいる処の、日蓮大聖人の哲学が宗教の最高峰であるが故に、これを窮め尽くす事は、一切の学問の根底を掴む事となるのである。
(昭和三十年二月一日)