戸田城聖先生の巻頭言集 34『中道論』
信仰人の態度は、中道でなければならぬ。
折伏(現在は対話と言っている)すれば功徳があると。これは勿論の事である。特に願いがある人々は、折伏は大事な事である。しかし、自分の商売も放って、折伏に駆け回り、金が儲からぬと嘆く者がいるが、これは、バカな事だ。商売は商売として、しっかりやって、余暇を利用して折伏に励めという事である。それを、折伏と聞いては、商売をそっちのけにして、折伏、折伏と出かけて歩く事は、片寄っているというものである。商売道は商売道として、工夫考慮をしてこそ、儲かるものであって、その工夫考慮に、根本的な力を与えるのが信仰なのである。損を小さくし、利益を多くするのは、信仰の妙理である。 また信仰の力であるのだ。
釜の中に、米と水とを入れて、御本尊に供え、どんなに題目を唱えても飯にはならぬ。 これを火にかけて、題目を唱えつつ、良きご飯ができる様にと念ずるならば、自然のうちに火加減と、水加減を会得して、良きご飯ができるのだ。この様な理合いで、折伏せよというのである。
さて、商売を熱心にしなけりゃならぬと言うと、折伏等を忘れてしまって、商売ばかり無我夢中になる。それでいて、あまり儲かりもせず、場合によっては損をする。この様なのは、また、片寄ったという以外にはない。
中道は、信仰人の態度である。折伏も片寄らず、商売道も片寄らず、中道法相をもって、掟とせよ。
昔、釈迦の成道した頃の話であるが、鹿野苑において、5人の弟子が断食の修行をしておった。釈迦は、5人の弟子の前に現れて教えたのであった。2人は乞食行をせよ、3人は思索せよと。次の日は、3人が乞食せよ、2人は思索するのであると。即ち、断食という事は、片寄った事である。であるが故に、乞食をせしめて断食を止めさせたのである。全部に乞食させない所以は、腹いっぱい食って思索できなくなる事を恐れたからである。断食をする事も片寄っていれば、腹いっぱい食う事も片寄っているのである。この教えは、阿含部の教えであるが、あの小乗の教えの中にも、妙法蓮華経の境涯より振り返って見れば、中道法相が説かれているのである。この様に読むという事は、絶待妙の立場において読むという事である。
故に、病人であっても、医者にかかって、治る病気は、医者にかかるべきである。それを、折伏で治すなどというのは、片寄ったものと言わねばならぬ。こう聞くと、今度は信心も折伏もやめて、ひたぶるに医者にばかり頼るという事は、また片寄った仕方である。 中道法相とは言いかねる。
医者にかかって治る病気でも、こじらす場合もあれば、長引く場合もある。しかるに、正しい信仰の上に立っている場合には、それが無いのである。
たとえ、下手な医者にかかっても、その医者は、不思議にも病気を正しく見立て、それに相応しい投薬をするので、奇妙に治りが早いという様な事が起こるのが、信仰の妙理なのである。
但し、医者で治らぬ病気は、ただただ強く信仰する以外には無い事を付記しておく。
(昭和二十九年六月一日)