戸田城聖先生の巻頭言集 33『忍辱の鎧を著(き)よ』

 

 創価学会が、折伏の大行進を為している所以は、日本民族の救済にある。現時の日本民族には、依怙依託となる物がない。昔は、心細い事であるけれど、天皇とその軍隊とがあった。今はそれすらなく、物価の騰貴と、いつ大戦争に巻き込まれるかという、危惧に陥っている惨めさである。

 

 誰人が何物をもって、慰安と希望を、日本民族に抱かせんとするか。何処を見渡しても、何ものも無いではないか。されば、此処において、我が創価学会は、御本仏日蓮大聖人の広大なる偉力を、各自に自得させて、生き生きとしたる新生日本民族を造らんとするものである。

 

 その実践活動として、生命力の源泉たる大御本尊様を、彼らに勧めて、受持させるのである。即ち、日本民衆に本尊流布を為すのであって、これが完遂された時こそ、日本民族は希望と歓喜に満ちわたるのである。この行為は、遠くは釈尊の慈悲、近くは日蓮大聖人の大慈悲に、学んだものである。

 

 この故に、折伏は慈悲の行為であり、法施なのである。その人を尋ぬれば仏の使いであり、仏より遣わされたる人であり、仏の事を行う者である。その位置を考うれば、秀吉、ナポレオン、アレキサンダー等より幾十億倍すぐれる。普賢、文殊、弥勒等は、遠くよりこれを拝し、梵天帝釈等も、来たり仕うるのである。かかる尊き身をかち得て、折伏を行ずる、我々の喜びは、何ものにも、例えようも無いものであるべきだ。

 

 しかるに、この行事たるや、難事中の難事なのである。故に、法華経にも、この事を喩えて云うのには、須弥山を、足のつま先で投げ飛ばす事よりも、また、枯れ草を背にして、大火の中に入って、焼けない事よりも、この折伏を行ずる事は、なお至難であると説かれている。何故かならば、今日、末法の世は、五濁(ごじょく)(あく)()とも、三毒強盛(さんどくごうじょう)の世ともいわれて、素直に仏意を信ずる者は、皆無の時代だからである。自我偈にも、顛倒(てんとう)の衆生といって、良き宗教を悪しと思い、悪き宗教を良しと思う者ばかりの世であるからである

 

 我らが、情けを持って折伏するといえども、即座にこれを聞く者は、皆無と思うべきである。反対する、悪口(あっく)罵詈(めり)する。ある時は打擲(ちょうちゃく)にも遭うのであって、水に溺れている者が、救わんとする人の手に、噛み付く様なものである。その至難さはいうばかりない。

 

 さて、始めは情けを持って折伏するも、前記の様な衆生であるが故に、凡夫の我らは、時によって、自己の尊貴な位置も、崇高なる使命も忘れて、彼らと同等の位置に陥り、口論喧嘩となる時もある。かかる事は、己を汚し、大聖人に背き、釈迦仏教界の菩薩級にも、嘲笑われる仕儀(しぎ)にもなるのである。

 

 吾人は言う。折伏に当たっては、忍辱の鎧を著よと。無智の者より、悪口罵詈せられたならば、我忍辱(われにんにく)(よろい)()れり、と心に叫んで、慈悲の剣を振るう事を忘れてはならぬ。

 

(昭和二十九年五月一日)