戸田城聖先生の巻頭言集 31『異体同心』

 

 異体(いたい)同心(どうしん)という事をよく誤って用いている。同じ宗門であるから、君の心と自分の心とは同じだ。心のどんな状態が同じなのであろうか。そこまで吟味をしないで、漠然と、体は違うが、心は同じであると、だから仲良くしなければならないのだ、などと随分浅薄(せんぱく)な観察ではなかろうか。中には、異体同心だから金を貸せ、商売の手伝いをせよ、などと世法の中に持ち込んで、我が身に都合の良い様に用いる者もいる。

 

 異体同心の『心』は、(かん)(じん)の心であり、信心の心である。体は異なっても、信心が同じであり、観心が同じである事を意味するのである。当門において、観心とは受持(じゅじ)(そく)(かん)(じん)といって、弘安21012日の、一閻浮提(いちえんぶだい)総与(そうよ)大曼荼羅(だいまんだら)を、()(ぎょう)を混じえず、ひたぶるに信心し奉る事である。

 

 この様に、各自が同一の信心を持っているが故に、異体同心というのである。この様に、信心が同じであるが故に、互いに(そね)む事もなく、憎む事もなく、相和して御本尊に仕えまつる。この精神を、和合僧の精神というのである。(いたずら)らにこの言葉を、世法の事に用うるべきでない。ただ、互いの信心を励ます言葉として、用うるべきである。この様に、同一の本尊を信ずる、異体同心の輩は、(たと)えて言えば、兄弟の様なものであると、考える事ができる。故に互いに信じ、互いを愛し、協力するということは当然の事である。

 

 学会においては、信者同士の金銭貸借を禁じているが、それは何の為であるかといえば、金銭の貸借によって、返さない者を恨み、催促された事を憎むことによって、和合僧の精神を破る故に、禁じているのである。

 

 もし、金を貸さんとする者あらば、返さなくてもよいという精神で貸すならば、貸しても差し支えないのである。また、借りた者も、その金が有用に使われ、かつ感謝に満ちているなら、借りてもよい。但し、絶対に返すという心を、忘れてはならない。仕事の協力においても、同じである。

 

(昭和二十八年十二月十日)