戸田城聖先生の巻頭言集 29『科学と宗教』(2)

 

 科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明の伴う、論理的な宗教が世界に唯一つある。 最高にして純粋なものだ。

 

その宗教の哲学の対象は何かというに、生命である。 人間の生命あらゆる物の生命社会及び国土の生命・(いな)進んでは大宇宙生命を研究対象としているのである。しこうして、その宗教は、大部分、人間の生命に、研究の度を置いているが故に、如何にせば、我々は、幸福な生活を送りうるであろうかという点に重きを置く事は、科学と同様である

 

 科学が、純粋の真理を求めつつ、しかも、討究して得られた定理が、人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も、純粋なる生命哲学を、最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は、人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。 例えば、原子核の分裂という事は、今の科学においては最高のものであるが、この原子分裂の定理は、単なる学問として留まるものに非ずして、平和を守る為の原子爆弾として行動化されている

 

 同様に、この宗教の最高無上の定理は、定理として留まる事なく、各人の幸福、社会の幸福を築かんが為に、御本尊として行動化されている。即ち、この御本尊を信じ、この本尊に向かって南無する時に、各人の希望は叶えられ、旺盛なる生命力は培われて、ここに平和な社会が建設されるのである。

 

 かく言うならば、宗教に知識を持たぬ人は、非常に不思議がる事であろう。しかし、何の不思議の無い事は、科学における原子論について論じてみたら、すぐ了解する事と思う。 それは、ただその事について、知識を持っているか、いないかの差によって、これを疑い、これを信ずるという事が、はっきりするであろう。窒素の原子核に、2個の中性子と、2個の陽子を入れる時には、重酸素に変化するという様な事は、科学を知らぬ者には、窒素が酸素に化けたと思う以外になく、これはウソだと言うに違いない。 

  本尊についても、知識の無い者は、同様の事を主張するであろう。この宗教と、この本尊については、次号において詳述する。

 

(昭和二十八年七月十日)