戸田城聖先生の巻頭言集 27 折伏の心がけ
われらが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福に生きんがためである。
本尊とは、不(ふ)可(か)思(し)議(ぎ)境(きよう)であって、この御本尊を、なにを知らなくても、ただ信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ずや不可思議境に到達する。この妙境に到達するとき、永遠の幸福は保証され、慈悲の力がわき出でるのである。
また、われらが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。なんとなれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に、他の貧(ひん)窮(ぐ)の衆生にも、その幸福を分け与えようとするのであるから、これ以上尊い仕事はない。
しかるに、この尊い仕事にたずさわりながら、折伏に応じないからといって、憎んだり、おどしたりしては、あいならん。慈悲に満ち満ちた行動でありたいと思う。
罰論を説くに当たっても、教えるという態度でなくてはならぬのに、『私のいうことを聞かなくては罰が当たる』等と、さも自分が仏になったような ― 醜い至りである。罰のよってきたるところ、貧しきわれらの境遇を順々と説き、尊(そん)極(ごく)無(む)上(じよう)の御本尊を讃歎し、救わるるはこれだけであるということを説くべきである。
また折伏したのちに、恩着せがましく、自分をありがたがれという態度はよくない。ただ、御本尊にご奉公のできたのを感謝するだけでいいのである。
教(きよう)化(け)親(おや)などということばは、邪宗の用いることばであって、断じて使ってはならぬ。
またつぎに、折伏したものを、最初よく指導してやらぬはいけない。御本尊を持たせっぱなしなどということは、かわいそうなことであるから、よくよく、その点は考えなければならない。
また、指導するに当たって、さも、自分が偉くなったように思うものがあるが、それは慢心を起こすもとであるから、気をつけなくてはならぬ。
なかには先生などとよばれて、さも偉そうな顔をしているものもいるが、もってのほかといわざるをえない。ことに、自分の指導しているものにたいして、威張り散らしたり、押えつけたりすることは、絶対に禁物である。
ただ、この世に生まれて、一言にても法の説けることを御本尊に感謝して、慎み深くあらねばならぬ。
※私見 戸田城聖先生から池田大作先生(学会幹部等)への指導
(昭和二十八年三月三十日)