戸田城聖先生の巻頭言集 21 折伏小論(3)
日蓮大聖人様の弟子檀那たる者は、広宣流布の為、生命を賭するのは当然である。謗法を呵責して、大聖人様のお教えに応える事は、当然至極の事であり、何ら不思議とするに当たらぬ。
しかるに、現在、寺院信徒の中に、これを観念的には良く理解しておりながら、実際生活には、全然反対な行動をなしている者が多々あるのは、誠に遺憾な事である。
大聖人様、生死の理りを現されて、ご涅槃の後、年久しく、その間強信な信者、名僧多く出現すというとも、邪宗に押されて、正宗の勢い全く地に落ち、全国百余ヵ所の寺院を支えるにすら、ようやくの現状とは、あまりになげかわしき事ではなかろうか。少数の寺々を除いては、タタミ破れ、壁は落ち、信者また折伏の意力さらに無く、法まさに滅尽するの感深きにあるを、まことに信ある者は、なんとみるであろうか。まことの信者あるならば、百万の敵ありとも、仏法を救い、仏法を守り、大聖人様以来の正統、清純なる日蓮正宗を守るべきが当然であろう。
ここに、この理に適うて、創価学会は、起ち上がっているのである。しかるに、わが会員中においても、折伏する事が、相手に悪い様に考えたり、遠慮したり、義理にからんだりして、ちゅうちょしているのは、何事であろうか。折伏をすれば功徳のある事は、自明の理であるとしていながら、御僧侶が、これを一つも叫ばない。叫ばないからとて、利益が無いのではない。絶対に利益があるのである。自分ひとり、御本尊様を拝んでいるのは『慳貪に堕す』といって、仏の最も忌まれるところである。 これ、安楽行品の意に準ずるものであり、大聖人様の特にお叱りになっていられるところである。
さりとて、組長以上の幹部級が、折伏しろ、折伏しろと言っているのは、あたかも、戦争の時に、小隊長、中隊長が、後ろから、進め、進めと言っていたのと同じ事である。折伏しろと言われた者は、何の為に折伏するのか、その意味が分からなくては、折伏できるものではない。広宣流布のためだ、大聖人様のお心だという様な言い方では、初信の者は、自分に関係ないものと考えてしまうものである。
折伏する事が、御本尊様を拝むと同様に、非常に大きな功徳があるのであって、我々の悩みを解決するには、強盛な信心と、剛毅な折伏とが、絶対に必要なる事を理解させるならば、折伏しろといわなくても、当然折伏するであろう。また、その裏付けとして、日蓮正宗がいかに正しく、大御本尊様はいかに偉大な功徳があるかを、確信させるならば、なおなお、強き折伏の闘士が出現するであろう。それがためには、折伏教典を完全に用いられるべき事を付言しておこう。
(昭和二十七年七月三十日)