戸田城聖先生の巻頭言集 17『折伏活動に価値的行動を望む』

 

法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄疑いなかるべし

 

 このご金言を、創価学会員は堅く信じまいらせ、また御本仏の命令を尊び、慎むが故に、折伏に邁進する事は理の当然であり、吾人として喜びに絶えないところである。折伏をしなければならぬという事を、誰でも知りながら、信力不足の者は世の難に恐れ、人の誹謗を怖がって、中々、成し得ない。それを、あえてする同志の人々に対して、その信力の強さを、誠に慶賀にたえないのである。

 

 しかるに、折伏をするのに、同じ時間を用いながら、更に効果の上がらぬ場合がある。それは、折伏の仕方が、相手の悩みの中心に触れないからである。また、相手の求むる処に触れないからである。現代の衆生は、五濁悪世の衆生である。絶対に悩みの無い訳がない。また、願望の無いという人間が、この敗戦日本の民族の中に、有りうべき筈がない。この願いを叶えさせ、この悩みを救わんとなさるのが、大聖人のご大願であらせられる。

 

 されば、我らが折伏に当たっては、その相手が、何を悩み、何を願っているかを、よく見極めなくてはなるまい。 折伏に当たっては、各人各様、悩みと願望に相違ある事を、十分意識してかからねばならない。病気で苦しむ人に、御本尊様が絶対に金持ちにしてくださると説いても、仕方のない事である。貧乏人に、子供が生まれる功徳があると言っても、話は通じまい。理論を知ろうとして願っている人に、功徳の話や罰の話ばかりしても、どうにもなるものではない。されば、相手を見極めて折伏をする事は、絶対に必要な事である。これは、時間を価値的に用いる事である。

 

 また、御本尊送りは絶対に必要な事ではあるが、誰が御本尊送りする事が価値的であり、正当であるかを考えなければならない。時間も、改めて、昼なら昼、夜なら夜に行ったらよいかは、家庭の状況を考えて、価値判断をなすべきである。これは一例であるが、あらゆる折伏活動を価値的に判断して、より高き価値を創造するよう、絶えず考慮すべきである

 

 座談会においても、11時、12時までこれをなして、寧ろ座談会の価値を低下する場合がある。それが為に、出席した人が夜遅く帰宅する為に、物議をかもして、学会の総体活動に悪影響を及ぼす場合がある。係る事は、全体的立場から価値的ではない。係る場合は、少なくとも9時半なり10時なりに打ち切って、故障の起こらぬ者に限って指導すべきであろう。

 

 折伏は信心より起こるものであるが、行学によって信仰の知識を深め、解かり易く時間を使わずに折伏する事も、これまた価値的な方法であるから、絶えず行学を励まなくてはならない。と言って、理論に走って、理論によって折伏するという事は、折伏の全体ではない。時にいち早く御本尊をいただかせて、御本尊を拝む事によって、偉大な御本尊のご威光に触れさせる事は、最も価値的な場合が多いから、この点もよく考慮すべきであろう。

 

 御本尊には、偉大な功徳があらせられる。凡智をもって折伏された相手の機根を、推し量る事はできない。まず御本尊の偉大なご威光に触れさせる事が肝要である。

 

 折伏に熱心のあまり、若い青年が夜の10時、11時に、他家を訪問するという事は、世法を無視するが故に、世間の笑いを買い、法を下げ、折伏に害を為す事が多大である。この事は、絶対に価値的ではない。相手の世法的な都合など全く無視して、無理押しに攻め立てる事が、真の折伏であるかの如く勘違いしてはならないのである。十分注意すべき事である。

 

 以上大略を述べたが、要は折伏を価値的に為せとの事であって、考えたり、逡巡したりせよという事ではない。全会員が信力を本として、勇敢なる折伏の闘士であらん事を望むものである。

 

(昭和二十六年十二月二十五日)