戸田城聖先生の巻頭言集 12『日蓮大聖人と折伏の徒』

 

 御開山日興上人の御遺誡置文に、

 

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)す可き事。

 

折伏の上手な者、大確信に満ちて折伏を成し遂げる門弟は、大聖人様は非常にお可愛がりあそばされた。そして、その様に折伏する者は可愛がっていきなさい、とのご命令である。

 

されば、創価学会の精神は、折伏に重きを置き、大聖人様よりご愛顧を蒙って、一生成仏をお願いするのである。この事は、また、御開山日興上人のご命令に忠順な事であり、とりも直さず、大石寺代々のご法主上人に、忠順なる行為である。世間の地位とか、入信の前後とかを問わず、折伏に精進する者は、学会の重鎮であり、大黒柱である。会長たりとも、各部長たりとも、折伏行に精進する者に出会えば、大聖人より「善哉、善哉」と、お褒めに預かっている御仏の使いとして、立って、これをお迎えしなくてはならない。

 

大聖人は折伏を行じない者を、次の様に仰せになって叱っている。

 

『法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし』(曾谷殿御返事1056頁)と。

 

 折伏をしなさい、折伏をしなければ成仏はできないと、強く仰せである。折伏をしない者は、師壇共に地獄に落つべしとは、何と強いお言葉ではないか。折伏を行ずる時は、成仏疑いないと、仰せである。各人が折伏行に励む時、その人々の生命は、喜びに躍動して、仏界にある心身を感ずるのである。そして、これが一生成仏の証である

 

 折伏行も、確信に満ち、大慈悲の現れとして、勇気に満ちていなくてはならないし、確信のある所、必ず勇気に満ちるのである。

 

 大聖人は、

 

日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし』(開目抄202頁)と。

 

 何と崇高な、大慈悲に満ちたお姿ではないか。

 

 我々五濁悪世の凡夫は、大聖人のご慈悲を蒙る身なれば、大聖人のお言葉をまねるは、恐れある身なれども、ただ、大聖人のご慈悲をありがたしと思うが故に、『我々学会員は、大聖人の大慈悲には、千万が一分も及びませぬが、大聖人を信じ参らせ、折伏への勇気の優れたる事は、迹化の菩薩は恐れをも抱くであろう』との大確信こそ必要であると思う。

 

 佐渡御書(961頁)に、大聖人仰せあり。

 

『日蓮御房は師匠にておはせども(あまり)にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火(ほたるび)が日月をわらひ(あり)(づか)華山(かざん)(くだ)井江(いこう)()(かい)をあなづり烏鵲(かささぎ)鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし』と。心弱き折伏の者よ、このお言葉に恥じないのか。弱輩は、自ら恥じて、まさに、息のたゆるの観をなすべきである。

 

 しかも、時は来ているのである。東洋の姿、日本民族の苦しみは、大聖人ご在世と類似している。活眼を開いて、大聖人の御書を拝読したならば、今をおいて、いつの日に広宣流布すべきであろうか。今をおいて、いつの日、東洋民衆を救うべきであろうか。大聖人ご出現の意義は、かかる時、かかる世の民に、唯一の頼りに成らんが為である

 

 慎んで大御本尊の命を受け、一日も早く広宣流布して、大聖人の慈悲に報いようではないか。

 

(昭和二十六年七月十日)