戸田城聖先生の巻頭言集 10『内容主義か形式主義か』
世間の色々な問題を処理していく上に、形式を重んずるいき方と、内容を重んずるいき方との二つがある。これは、両方とも偏見であって、正見ではない。
信心とか、イデオロギーの如き精神問題を中心として、内容主義でいく事は、良いとしても、形式を軽視する訳にはいかないのである。 特に、広宣流布の大願成就の如き大事業、難問題に対しては、特に適切の形式を打ち立てていく事が肝要であり、形式もまた尊重されなければならない。 例えば、幾ら効能のある医薬品であっても、その使途を誤っては、所期の効能をおさめる事は不可能であり、その薬品が高貴であればあるほど、正確な厳正な処方箋を必要とするが如きものである。
また、これと反対に、内容のない形式ほど無用、有害なものはない。 現今の宗教界の通弊は、これである。 もし、一つの宗教、宗派を開きたいならば、所要の形式を調えさえすれば、堂々と『宗教法人』の名乗りを、挙げる事ができる。 一旦、『宗教法人』となるならば、国家もこの宗教を認めているとか、進駐軍もこれを認めているとかいって、街頭宣伝を開始すると、無智の大衆は、ただそれだけで、現世の利益を追い求めて、続々と、その信者になる。 一例を上げるならば、ある宗派は、日蓮聖人の教えを広めていると言っているが、その内容は日蓮聖人とは、全く関係のないインチキ宗教であり、その理由は、かくかくの如しと、いちいち文証、理証によって、これを指摘しても、それでは、国家は何故、その宗教を認可しているのか、国家が認める位なら良いではないかというものがある。
或いは、また、禅、念仏、真言等の各宗教も、表面では仏教の看板を掲げているものの、その内容は、葬式、法事、墓番人等の儀式や形式のみで、全く釈迦の真意と、掛け離れた存在なのである。 念仏や真言の僧侶が、如何なる経典を読み、その経典の内容と、我々の生活とは、如何なる関係があるかを知って信仰している者が何人いるか。この様な既成宗教は、全く儀式と形式の飾り物に過ぎないのである。
例えば、如何に飾り立てた、立派な処方箋であっても、肝心の薬が処方箋通りの効能が無いか、或いは、処方箋とは全く別の薬が入っているか、或いは、薬とは真赤なウソで、内容は激しい毒薬であったら、結果はどうなるか。いずれの宗教も、同様に宗教の看板を掲げている事は、同一の処方箋であり、これを信心する時の一般大衆は、同じ処方箋を見て、同じ気持ちで信仰を始めるのであるが、その内容たる薬は、全く千差万別の物であり、信仰する結果も、また決して同じではないのである。
また唯物論と唯心論の論争等も、ほぼ、これと同様な堂々巡りを、繰り返している。幸福追求の方法として、経済組織や政治の形態、階級闘争等を、盛んに強調し、これによってのみ、人類の真の幸福が求められるというのに対して、その様な形式も大切ではあるが、唯心的、精神的な物が根本であるというものがある。これがまた、両方共偏見に陥った論争である。
そもそも、法華経において、『一切法』と説かれている如く、また天台大師が、化儀(説法の儀式で処方箋に当たる)化法(所説の法体で薬に当たる)と説かれている如く、内容と形式とを、最初から円満に兼ね備えた『教法』でなくては、真に人類を幸福に導く教えとは言われないのである。
組織が大切か、人が大切か。組織は、勿論人が作る物であるが、人はまた、自分の作った組織に縛られ、制約されるものである。故に、我々の行動も、また、内容と形式とを兼ね備えたものでなくてはならない事も、言うまでもない事である。
(昭和二十五年八月十日)