戸田城聖先生の巻頭言集 4  邪教をつく 

 

 世間に、今大流行をしている宗教がある。この宗教は南無妙法蓮華経と唱えるから、知らない人々は、日蓮宗だと思っている。信者自身も、日蓮宗とはこんなものかと信じているものが大多数である。その理由は、ただ南無妙法蓮華経と唱えるからである。しかし、その教義は、日蓮大聖人の教えなど、毛ほども用いていない。

 信者は、まず先祖をまつれ、死者のイハイを拝めと教えられる。そして、お導きと称して、信者を二十五人から五十人と作ったものは、利益があるとせられている。だから、『ねずみ算』式に、信者はどんどんふえる。もうかるのは本部だけで、信者の方は、真の仏教でないデタラメなものに夢中になるから、宗教の原則によって、だんだんと生命力をなくしてしまう。そして、かれらのいうには、「法華経」にある教えだと称して、恥としないのである。なぜ先祖をまつるかというと、「仏所護念」ということが、法華経にある。これは仏が信者を護ることだ。仏とは、とりわけ先祖であり、死者のことだから、どこのイハイでも拝むなら、その死んだ人、死んだ先祖は、拝むその人を護るのであるというのが、ただ一つの教義である。

「仏様とは死人のことをいう」と、俗世間では思いこんでいるものが多いのは事実だから、これを利用して、愚人に、「死んだ人即仏で、仏を拝めば利益がある。それは法華経の仏所護念の経文による」と思いこませているのである。仏所護念が、一番大事な金カンバンである。もし、釈迦が、これを聞いたら、怒ることを忘れて、呆然として、しかる後、大いにふき出すであろう。日蓮大聖人がお聞きになったら、「世も末」と、ただ一言おおせあるにちがいない。

 法華経のなかに、仏所護念ということばは、数個所にあるが、これは、「説大乗経、名妙法蓮華、教菩薩法、仏所護念」という一連の句をなしているので、仏所護念だけで意味をなしているものではない。全体が一文をなしているのである。すなわち妙法蓮華経と名づけたてまつる経は大乗経であって、菩薩に教える大事な経であり、三世諸仏(決して死人ではない)すなわち仏になられた方々が心から護り念じてきた経であるとの意味なのである。

 仏所護念の仏は仏道修行の極致にいたり、人格が大完成して、あらゆる人を救う力ある、たとえば釈迦のような仏様を意味しているので、しかも、この仏が護り念じているのは、妙法蓮華経なんだという意味であって、この邪教の教えるがごとき意味は微塵もない。先祖のイハイを拝んだとて、先祖が仏になっていないことは自明の理だ。餓鬼界にいるか、地獄界にいるか、修羅界にいるか、六道のどの世界かにいる先祖だけを拝むなら、その先祖がその人を護るどころか、自分を救ってくれと言うにちがいない。ところが、こちらでは、仏法をもじっているから、救うどころの騒ぎではない。そこで、先祖の苦しい境涯と、こちらの念が感応して、その人の生命をなくしていくのである。ここに、その人の不幸の原因をつくっていくので、ほんとうに、かわいそうなのは、知らず、幸福になると思って、不幸におちいる信者である。

 これを要するに、『先祖をまつる』ということは、長い間の人類の習慣であって、『まつる』こと自体は、いっこうに不思議でもないし、悪くもない。ただ問題は、「まつる方法」にあるのだ。いまだ吾人の記億になまなましいことは、戦時中に、敬神崇祖といって、日本国民全体に神社の礼拝を強制して、それが、超国家主義、軍国主義と結託していた当時も、『祖先を崇める』ことに変わりはなかった。しかし、このような祖先のまつり方では、決して幸福になれないことは、現実に実証されたのだ。

 いま、また、『先祖をまつれ』といって宣伝し、仏教教典になんらの根拠もないインチキの教えをふりまいている状態を見て、さらに無智の大衆が、なんらの批判もなしに、これが日蓮大聖人の真の教えであるかのように、眩惑されているのを見て、吾人は、だまっておられないのである。邪教の理論的詐術を知らぬ愚人こそ、吾人は哀れと思わざるをえない。

                            (昭和二十四年十月十日)