3 『無用の長物』
坊主ほど、日本再建の今日、無用のものはない。かれらは、何のために法事や葬式にお経を読むのかということを、深く考えたことがあろうか。先祖代々、各宗各宗によって、葬式や法事のとき、お経を読んできた。自分も坊主になったのだから、葬式や法事に、師匠ゆずりの経を読む。そうして、お布施と称する労働代金をもらう。それで本人は不思議でないとしても、よくよく考えてみると、こちらでは不思議でならない。
お経を読むことは、何のためなのか。葬式や法事になくてならない儀式の一つで、家族、知友が、それによって涙するだけの効能とするならば、酒宴の席上、芸者なるものが出てきて、三味線とかいうものを弾いて、客の興をたすけるのと、陰陽異なりといえども、その効能は同じである。そうなると、坊主と芸者は同じようなものであるが、芸者は女一人食うだけで、大きな寺のような建物を持っている者ではない。坊主は大きな寺を持って、大威張りで労働代金を過分に請求する。一つの牧場で、子羊が食う草と、大象の食う草ほどの相違で、大変な無用の長物である。
坊主どもに、さも指導者のような顔をさせて、芸者のような職業をさせている民衆は、バカだとしか言えない。共産党の烈々たる闘士も、黄金の代表のような金融業者も、軍国主義の大親分方も、一度死に直面すると、また死んでしまうと、坊主が大威張りとなる。どういうわけだろう。習慣で済ませないものがある。何故なら、坊主の大先祖は釈迦であり、仏であらせられる。仏も釈迦も、世の苦難を救う大救世主であり、一大哲学者であり、大実践家である。何のために、釈尊は経を読まれたのか。釈尊の教えを、そのまま継がれた天台大師でも、章安大師でも、伝教大師でも、みな経を読んでおられる。経を読むことには意味があるらしい。
さて、今の坊主が、経を何のために、死者のために読むのか。もし死んで、唯物論者のように、この世に、その人がいないなら、坊主の必要はない。死者がこの世にいるとするなら、どんな所に、どんなにしているのか。また、その生命に、どんな経文を、どんなにして読んだら良いのか。このような問題を、みずから深く掘り下げて、解決して、その上に、確信を持って経を読む坊主が、幾人いるだろうか。
しかも釈迦が、自分の経文は、自分の死後二千年したなら、どんなに読んでも効能がないと確言しているのに、その空の経文を、空々しく、これを知って読むものがあろうか。知らないとすれば、なおバカだ。このバカに、騙されるヤツは、なおバカだ。どんな意味から考えても、歌にもならず、役にも立たぬ経文を、しらじら読んで、『読み賃』を取って、食っている坊主は悪人でもあり、詐欺漢でもあり、非生産的な存在である。今日の日本に、こんな種類の人間を養う余力はない。故に、吾人は叫ぶ。
『現代の坊主は、まず放逐せよ!さもなくんば重労働を課せ』と。
また、このような、わけのわからない存在に対して、疑問も持たないし、不思議にも思わないで、ただ親ゆずりと放任しておく一般大衆の無智、鈍感、封建性に対しても、我々は、飽きれざるをえないのである。余のことばによって、猛り狂う坊主あらば、来って法談せよ。汝らに自らの道を与えん。 (昭和二十四年九月十日)