鹿児島城(別称:鶴丸城・府城)

鹿児島市城山町

 

 

 

創設年代・・・・慶長七年(1602)

創設者・・・・・島津家久

形態・・・・・・平城

遺構・・・・・・石垣・堀・本丸・二の丸

 

 

 

ポイント

城は一重の石垣と堀を巡らし、多聞櫓を塁上に並べ、大手を櫓門にした陣屋造りの外容であった。

これは外様としての幕府への配慮と、いざという時は城山に陣所を置いて戦う計画であった。

更に領内に残った中世の山城を温存し、家臣を地方に配置した外城制度である「麓」を102城設け、全領内を要塞化した。

 

 

 

 

 

 

 

H14年登城時の本丸大手門跡

 

 

 

同大手門跡

 

 

 

 

 

 

 

西南戦争時の弾痕が残る石垣

 

 

 

大手門御楼門石垣

 

 

 

同枡形

 

 

 

本丸石垣と水堀

 

 

 

北東隅石垣の入隅(鬼門除け)

 

 

 

本丸石垣と水堀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸跡の照国神社と城山

 

 

 

城山

 

 

 

H29年登城時、私学校跡

 

 

 

私学校跡の弾痕跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北東隅石垣の入隅

 

 

 

本丸石垣と水堀

 

 

 

大手橋

 

 

 

大手橋と大手御楼門跡

 

 

 

大手門跡・城碑

 

 

 

同御楼門跡

 

 

 

 

 

 

 

御楼門枡形

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石垣の残る弾痕跡

 

 

 

城山からの桜島

 

 

 

S49年鹿児島市訪問時、西南戦争戦没者墓

 

 

 

西郷隆盛終焉の洞窟

 

 

 

島津家別邸・磯庭園

 

 

 

同からの桜島

 

 

 

 

印象

本当にこれが南国大藩の居城かと疑うくらい質素だ。

いざという時は、西南戦争で本営が置かれたように、城の後ろに控える城山で戦うつもりだったらしい。

詰の城を抱えた中世の城郭構成である。

今は資料センター、図書館等が整然とある中に、西南戦争の時の弾痕が石垣の所々に残り、戦う城跡であったことを思わせる。

その他西郷隆盛終焉の地の城山や島津藩別邸だった磯庭園、そしてなんといっても眼前に控える桜島など見所が多い。

三度目。

大河ドラマ「西郷どん」の関係から、整備が進む。

地元の期待は大きいようだ。

石垣に残る弾痕が戦いの激しさを物語る。

 

 

 

 

略史

島津氏は平安末期に日向国島津荘の下司職になり、島津姓を称した。

鎌倉時代には薩摩・大隅国の守護職に補任され、次第に勢力を伸ばした。

南北朝抗争時代に貞久は鹿児島を領国支配の拠点としたが、室町時代には内紛が激しくなり一族がそれぞれ小大名となった。

戦国時代には伊作島津家の貴久が宗家を継ぎ、子の義久・義弘らの協力を得て薩摩・大隅を攻略した。

ポルトガル船がもたらした鉄砲を逸早く実戦で用いた貴久が死去。

次の義久は飫肥の伊東氏を破り、次いで相良氏、竜造寺氏、大友氏を破り九州第一の大名となった。

しかし豊臣秀吉の九州征伐に対抗したが力及ばず降伏、薩摩・大隅・日向の旧領は安堵された。

関ヶ原で義弘は西軍に与した為、存亡の危機に立たされたが家臣必死の嘆願によって旧領の安堵を得た。

薩摩藩の初代家久は新城築城に当り、父義弘が従来の本拠地清水城にこだわったが、新時代に即応した城として、城山山麓に築いた。

領国内は外城制度により百十三の郷の武士集落を形成した(郷士制度)。

また徳川家康の許可を得て琉球出兵し支配、中国との貿易も行った。

次の光久は新田開発、金山開発、殖産の拡充に努め財政基盤の強化を図った。

しかし綱貴の時鶴丸城、高輪藩邸、芝藩邸が火災に遭い、更に綱豊に将軍家よりの輿入れが重なり財政をさらに圧迫した。

重年の時には木曽三川治水工事を命じられ、多大な出費と犠牲を強いられた。

重豪は徹底した緊縮政策をとる一方、開明政策を推し進め言語風俗を改め、医学・天文学の藩校も創設した。

しかし娘の茂姫が十一代将軍の正室になった為、幕府より多大な出費を再度強いられた。

斉興の時、側用人調所広郷を登用し、大商人より踏倒し同然の借金で藩債を整理したり、国許の債権者は士分に取り立てて帳消した。

他方琉球貿易の拡大や国産品の専売制で収奪を強化し再建を果たした。

調所は密貿易露見の咎で自殺した。

斉彬も開明的な政策を執り、反射炉・溶鉱炉・洋式造船所・ガラス・電信機業を起こすなど我国の近代工業の先駆的役割を担った。

桜田門外の変後、討幕急進派が台頭したが、公武合体の立場をとる久光に抑えられた。

その帰途の生麦事件から薩英戦争が勃発、攘夷の無益を痛感、進んで西洋文明を吸収しようとの藩論が醸成された。

そして討幕に傾き西郷隆盛が藩を舵取り、第一次征長戦後坂本竜馬の周旋で長州藩と同盟し、討幕の動きが加速した。

 

 

 

 

訪問日

S40年 8月、H14年 9月、H29年12月